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hidew 2009.04.30

#1763 単純の極限 - 囲碁の理由

信長と囲碁~なぜ織田信長は囲碁を打っていたのか?

(via. http://ameblo.jp/igokyoto/entry-10235212376.html)
織田信長ほど、合目的的 に生きた人間はいないと思っている。信長は、「天下布武」という掛け声のもと、日本を統一するため常識を疑い、合理的に物事を考えて実行した。また、「人生50年」と認識していたので、一刻の時間も無駄にはしなかった。その信長が、趣味で囲碁を打つなどとは考えにくい。では、「なぜ囲碁を打っていたのか?」

  1. 囲碁で負けることにより、戦いの厳しさを学び、精神力を鍛錬していた。
  2. 囲碁を通して大局観・判断力を養っている。
  3. 負けることによって、戦略の重要性を学ぶ。

タイトルだけ見ると教科書的な抽象論が並んでいるような印象だが、解説では「囲碁をわかっている人」の名言が並んでいる。

  • 「負ける戦いはすべきではない」と痛感し、「.. 日々研鑚に務めるべきだ」と強く心に誓うのである。
  • 「複雑性が高い経営の世界から、無駄なものを省いて単純化したあとには、囲碁盤の黒石と白石の世界が残った」
  • 「負けることによって初めて、戦略の重要性を痛感する。負けない限りは、戦略の意味を理解できない」

とくに2番目が重要である。これこそが「チェスではなく、将棋でもなく、囲碁」の理由だからだ。

囲碁というゲームはこれ以上簡素化、単純化する余地がない。単純の極限 にある。

政治やビジネスの世界では、あまりに不純物が多いために、必ずしも「理屈が正しければ勝つ」ということにはならないが、それでも理論はある。その理論を果てしなく抽象化していけば、やがて囲碁になる。コンピュータの世界で全ての情報が 0 と 1 に還元されるように、ゲーム(戦略・経営シミュレーション)の世界で、全ては「黒と白」に還元されるだろう。

堀義人氏はさらに掘り下げて以下のような比較を行っている。

複雑なものを複雑なまま捉えても、何ら意思決定できない。複雑なものをある程度構造化して、単純化しないと意思決定はできないのである。「無駄なことを省いて単純化」する。つまり、実際の経営から、以下3つの要素を除外すると経営は囲碁とほぼ同じになるという事だ。

経営の世界では、 囲碁の場合、
経済、金融などの外部環境が移り変わる 対局者の打ち手によって生まれること以外の環境変化は無い
必ずしも競合他社は、1社じゃないし、同じ資源を持ってはいない 囲碁はあくまでも、相手は一人である
組織・人の要素がある 全ての石は同じ能力を持っていて、必ず棋士の言う通りに動いてくれる。

単純化して考えることの重要性は、囲碁そのものについても言える。強い人、あるいは調子の良い人は「盤面が狭く見える」ということがあるが、それはある種の「単純化」がうまくいっている - つまり着手候補手の選択肢が少ない - のであろう。

余談

囲碁のように「単純化」が極まっているものを見ると、逆に飾り付けをしてみたくなる。

  • 石に色をつける。形をチェスみたいにしてみる。
  • 碁盤を立体にしてみたり、六角形にしてみる。
  • 二手打ち、桂馬碁、3人碁。

元が単純なだけにバリエーションが次々に思い浮かぶ。

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4569707556 創造と変革の志士たちへ (単行本)

  • 堀 義人
  • PHP研究所
  • 2009/3/7

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