#1923 「碁法の谷の庵にて」風の精ルーラ氏のご都合主義(2)
のつづき。
おもに下記の記事について、ご都合主義言論を指摘する。
のつづき。
おもに下記の記事について、ご都合主義言論を指摘する。
囲碁は「運ゲー」でもある以上賭け碁は賭博です - 碁法の谷の庵にて
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/201006180000/
全ての人間は19路盤について分かっていないので、「人間の19路盤囲碁は運によっても左右される」というのは間違いではない。しかし、「下手な人間が打てば結果が揺らぐから、囲碁は偶然の勝負なのだ」という筋の悪い考え方をしていると、境界事例でおかしくなる。
たとえば「7路盤」くらいでは、その結果が「偶然」なのか「必然」なのか、微妙だ。プレーヤーの「強さ」や「愚かさ」の程度によって変わってしまう。三目並べ(○×ゲーム)は普通の大人であれば結果は「必然」だが、そうではない人にとっては「やってみなければ分からない」だろう。
刑法のコンメンタールは以下のように指摘しています。
「勝敗に影響すべき偶然性の程度を図ることは類型的にも具体的にも困難であり、このようなあいまいな基準に犯罪の成否をかけることは妥当でない .. 」
全くその通り。彼は自分で引用したこの文章を理解できていない。勝負に興じた人の「下手さ」「愚かさ」をどのように判断するのか。日本の総理大臣が誰か賭けようぜ!
の場合、「当事者双方の無知の程度」を客観的に立証できるのか。
仮に、囲碁が「運ゲー」だとするなら、その基準で、非「運ゲー」に分類される勝負はひとつもないだろう。「下手な人間が打てば結果は偶然だ」という屁理屈を使うなら、全ての勝負が賭博に該当する。
ゲームについて本質的に理解しない人間が「ヘボ碁なんて指運でしょ」という程度の認識で、「賭博とは偶然性が…」などと余計な説明を加えるから話がおかしくなる。法律家らしく「理屈ではなく前例で『賭け碁は賭博』と決まっている」とだけ言えばいいのだ。
「財物を賭して勝敗を争う行為の反風俗性は、偶然性の大小によって左右されない」
この部分だけを強調して「偶然性に関わらず、財物を賭して勝敗を争う行為は反風俗だから、」と言えばいいのである。
これに分類されるゲームの特徴は、理論上は完全な先読みが可能であり、双方のプレーヤーが最善手を打てば、必ず先手必勝か後手必勝か引き分けかが決まるという点である。
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/201006180000/
またモンスタークレーマーhidew氏からイチャモンが。
..
最近はきちんとした引用に噛みつくより、引用者である私にむやみに噛みつくことを覚えたようです(苦笑)。
論旨のおかしさを指摘されて噛みつかれた(苦笑)
なんて言っているようでは先が思いやられる。こういうタイプの人間が司法関係者に多いから、いつまでたっても冤罪がなくならないのではないかと思う。
より説得力のある説明で反論することができない人間は、うわべだけ言葉を強めようとする。
モンスタークレーマー
なんて表現はまるで子供の発想だ。モンスター
にもクレーマー
にも「理不尽な言いがかり」という意味が含まれている。重ね合わせたモンスタークレーマー
は「頭痛が痛い」の類である。貧困なる語彙を振り絞ってこういう強調表現を作り上げても滑稽なだけだろう。
「なんでもかんでも強めればいい」という単純な発想も「強めすぎて失敗する」のも相変わらずである。内省なき人間には成長もない。
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/201006180000/
「勝敗に影響すべき偶然性の程度を図ることは類型的にも具体的にも困難であり、このようなあいまいな基準に犯罪の成否をかけることは妥当でないばかりでなく、財物を賭して勝敗を争う行為の反風俗性は、偶然性の大小によって左右されないからである。」
風の精ルーラ氏は偶然性の程度を図ることは類型的にも具体的にも困難
であることを分かっていないから、「下手な人間がやれば結果は偶然」という屁理屈で偶然性を決めることが可能(法律論として妥当)だと思ってしまう。また、財物を賭して勝敗を争う行為の反風俗性は、偶然性の大小によって左右されない
ということにも同意していないから「賭博とは偶然によって…」と余計なことを言いたがる。
彼は一体何を意図してこの文章を引用したのか。
以前、彼は「弁護人は被告人に弁明の責任を負わせるわけにいかない」などと言い募った末に、なぜか「(下手な弁明による不利益は)被告人の自己責任であって、弁護人が批判されるいわれはありません」というモトケン氏の文章を引用していた。 #1885-12
今回も同じパターンだ。
自分の主張と反対の内容を、どういうわけか肯定的文脈で引用する。自分で引用する短い文章さえよく理解していないのだろう。あるいは、背反する2つの意見を(賛否を曖昧にしたまま)並べておいて、その場の都合に合わせて立場を行ったり来たりする「トホホ論法=塩コショウみたいに軽く定まらない風の精ルーラ氏の意見。 #1812-14 #1826-5 」か。
自分の意見を自分で否定する「矛盾した言動(引用)」、筋の通らない「支離滅裂な言動」は、主張の正当性を論じる以前の問題である。
風の精ルーラ氏は「賭け碁は賭博」と「賭博は、偶然の事項について物をかける…」を同時に盛り込みたいらしく、それらを論理的に整合させようとして、「囲碁は運ゲー」というデタラメを書いてしまう。本末転倒である。
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/201006180000/
この理由について、刑法のコンメンタールは以下のように指摘しています。
「勝敗に影響すべき偶然性の程度を図ることは類型的にも具体的にも困難であり、このようなあいまいな基準に犯罪の成否をかけることは妥当でないばかりでなく、財物を賭して勝敗を争う行為の反風俗性は、偶然性の大小によって左右されないからである。」
偶然性の程度をはかることは困難
であり、偶然性に関係なく反風俗的
であれば、「勝負に金品を賭けることは(偶然性に関係なく)NG」ということになる。この理屈に従えば「賭け碁は賭博」と言うのに「偶然性」を持ち出す必要などない。
「賭博は、偶然の事項について物をかける…」という定義に従うのであれば、「賭け碁は賭博ではない」。 囲碁は全ての因果関係がプレーヤーの着手に依存する。勝敗の責任は全て対局者にある。
どちらでもいいが、全てを盛り込んでは筋が通らない。
風の精ルーラ氏は知ったかぶりをしたいがために、あれもこれも闇雲に盛ってしまって、結果的に味噌汁とカレーを同じ皿に盛りつけるような事態になってしまっている。下手な料理人が何でもかんでも足せばいいと思っているのと同様に、下手な法律家は何でもかんでも説明をつけ加えればいいと思っている。
光市事件の論争からずっと続いている。彼らは「余計なことを言えばかえって事態が悪化する」「余計な調味料を入れれば料理が不味くなる」「余計な石を置けばダメ詰まりになる」ということが分からないのである。
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/201006180000/
コンメンタールの賭博の語義からまんま引っ張ってこないといけないらしいです。
「読みたくない!批判したい!」の面目躍如。彼の根性からすれば、コンメンタールをわざわざ引いてきたとは思えないし。本当にひいたんならすいません。
一体何を勘違いしているだろう。
一種の記憶障害ではなかろうか。
そのコンメンタール
なるものをわざわざ引いてきたのは風の精ルーラ氏である。
前から彼のマッチポンプは気になっていたが、実は、自分でマッチを擦ったことを本気で忘れてしまうのだろうか。
この理由について、刑法のコンメンタールは以下のように指摘しています。
「勝敗に影響すべき偶然性の程度を図ることは類型的にも具体的にも困難であり、このようなあいまいな基準に犯罪の成否をかけることは妥当でないばかりでなく、財物を賭して勝敗を争う行為の反風俗性は、偶然性の大小によって左右されないからである。」
私はここに書かれている内容に概ね賛同し、なおかつ、風の精ルーラ氏の主張がその内容に合致しないことを問題にしているのである。
「賭け碁は偶然が関係するから賭博なのだ」と言いつつ「偶然性に関係なく、財物を賭して勝敗を争う行為は反風俗」と言っている文章を援用するのだから意味が分からない。これは法学の問題ではなくて、論理とか日本語の問題である。なんでもかんでも「法学では…」で逃げられると思うな。
また、問いと答えがズレている。
私は「日本の総理大臣が誰か賭けようぜ!」の場合
と具体例を問いかけているし、別のところでは、もう少し現実的な境界事例として「7路盤」「三目並べ」だったらどうなるのか、という問いも提示している。ところが、彼は(意図的に?)「19路盤の囲碁」に限定して話を進める。また例のごとく、自分で答えやすいように問い(前提)を改変した上で、得意気に答えるのである。
私はこのようにも書いた。
「下手な人間が打てば結果が揺らぐから、囲碁は偶然の勝負なのだ」という筋の悪い考え方をしていると、境界事例でおかしくなる。
まさに、19路盤(十分に広い盤)でなければ通用しない筋悪の考え方をしているために、「三目並べや7路盤ならどうか」という問いに対しては、見ないふりをしてしまう。
本質的には(ゲームの性質上は)「三目並べ」と「19路盤の碁」は同じである。「愚かな人間が打てば偶然によって結果が決まる → 賭博」という屁理屈を言うなら、「人間の無知・愚かさ」を客観的に示す方法がなければならない。法律論として語るのならば立証・反証可能である基準でなければならないだろう。
ここでまた彼は易しい問題にだけ答えようとするかもしれない。
「三目並べの勝敗が偶然で決まるわけないだろう」と。
自分に都合の良い問い(しばしば、問いを改変したり、聞かれてもいない問いを作ったりもする) にだけ声を大きくして答える。自ら難しい境界事例に踏み込んで考えることはしない。喩えるなら「初級問題だけ選んで得意気に答えている中級者」と言うべきだろうか。
職務質問を受けました
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/201005100000/
この記事はまさにそれだ。彼が遭遇したような状況でトラブルになる人はいない。そんな状況に対して、さっさと解放されるために一番適切な回答は「おとなしく質問を受ける」こと
余計なケンカは売らない方がよいだろう
などと当たり前のことをわざわざ言ってしまう。そんなことは誰だって分かる。誰も対応に困らない穏やかな状況だけを得意気に説明しているのである。
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/201006180000/
賭博とは偶然のことについて賭けごとをすることである。現在は端的に法文で賭博とされているが、かつては「偶然の輸羸(ゆえい)」という言葉が使われていた。もちろん今でもその意味は変わらない。
普通の日本語をまともに使えない人間が、輸羸
なんて言葉を持ち出しても滑稽なだけだと思う。いろいろな意味で「法律家らしい」と言えるが。
負けと勝ち。勝敗。
賭博とは偶然のことについて賭けごとをすることである。現在は端的に法文で賭博とされているが、かつては「偶然の勝負」という言葉が使われていた。もちろん今でもその意味は変わらない。
平たく言い直したら、内容の薄さがバレバレ。何も言っていない。
風の精ルーラ氏はかつて「棋士は神や悪魔が相手でも勝たなければならない。勝てなければマイナスに評価されることは全く疑いようがない」と言っていた。#1805
当時は彼も「囲碁は完全な実力勝負」という認識だったのである。世論捏造などトホホはあったものの「勝敗の全責任は棋士にある」という考え方の基本は正しかった。それが囲碁というゲームの性質である。
ところが、今回は「囲碁の結果は運によって左右される」などと言う。人間がやる以上、理屈通りにならない(偶然に決まる)ことはあるが、それは「囲碁の本質」とは関係ない。彼が実質的に言っているのは「人間は愚かだから、何事も運に左右される」ということだ。そういう解釈をするなら「囲碁は運ゲー」という言明は意味を失う。
以前から、風の精ルーラ氏は、塩コショウのように
#1812-6
フラフラと立場や前提を入れ替えて、姑息な説明に終始する。
原理的な話と人間的な話をご都合主義的に使い分けている(あるいは混同している)上に、無用の誇張、細部の誤りを重ねてしまって、ややこしい状態だ。一言で言えば支離滅裂である。
風の精ルーラ氏が「読みたくない!批判したい!」という薄っぺらい文言を繰り返す裏側には己の説明力の貧困さと、「オレ様の言いたいことを察してくれ」という甘えがある。彼は自分で言いたいことを自分でうまく説明できないので、話が込み入ってくると説明を何かに丸投げしてしまう。引用、要約さえも彼には難しいようだ。
説明を丸投げすることの効用はもう一つある。いざ、都合が悪くなったときに「自分が言ったわけじゃない」と言って逃げることが可能になる。彼は明らかに自分の意見として言ったことでも「みんなが言うであろうことを代弁したまで」という噴飯ものの屁理屈で、発言の責任を逃れようとする。#1805-19 #1808-6 自分の口で説明(引用、要約)したことには「責任」がつきまとうが、彼はどうしてもそれを逃れたいのだ。
前に、彼が黙秘権について不見識を晒して、それを必死に弁解しようとしたことがあった。文章を一応読んでみたが、本題とは関係なく、教科書を書き写したような内容がだらだらと続いていた。たとえば 1
よく知られた事実や当たり前の話、または正しいと広く信じられている話、正誤判断ができないために保留されざるを得ない話題等を、長々と(それも退屈な表現で)記述する .. 場合によってはその長文中に、あるいはそれに続けて、自分の信念を紛れ込ませる ..
当たり前だが「正しい」ことを書くことで、「この人は正しいことが言える人だ」と印象づけ、信頼感を与える。「正しい」ことには反論できないので、まるでその議論の場において周囲と渡り合っているかのように見せられる。文章を長くすることで、論旨を拡散させる。正しいが長くてつまらない文章の中に「自分の信念」を混ぜることで、誤った主張を正しいものの一部であるかのように書き込める。
風の精ルーラ氏の行動原理を見事に言い当てている。元々、文章を簡潔に書くということができない人だが、ごまかしの意図がある時は、とくに長くなる。そして上記でも指摘されているとおり「当たり前で退屈な内容」が増える。「易しい問題にだけ、得意気に答える #1923-8 」というのも同じ動機だろう。
元財務官僚の高橋洋一氏は「官僚のヘトヘト作戦」と言っていた。政治家に大量の文章を読ませて疲弊させるという魂胆である。それを成功させるためには「物事を要領よく説明できない無能」から「大量の文章を読めない無能」へと価値観の転換をはかる必要がある。「読みたくない!批判したい!」を連呼する背景にはそういう意図(ヘトヘト作戦の土壌作り)もありそうだ。
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依存性パーソナリティ
朝まで生テレビ 2010-05-29 を見ていたら、精神科医の香山リカさんが鳩山首相の言動が支離滅裂になってしまう理由として「依存性パーソナリティ」ということを指摘していた。具体的には「意思決定に際して多くの助言を必要とする。他人の言うことを過度に聞いてしまう」という性質である。
この話は風の精ルーラ氏にもそっくり当てはまるだろう。
これらはいずれも、自分自身の考えが弱く、世論、権威、既存の情報に強く依存する性質を表している。
ただ、鳩山首相は方々に気配りしすぎて「八方美人」になってしまうのに対して、風の精ルーラ氏はどんな場面でも常に自分を正当化するために、その場で一番都合の良い情報(権威の発言、学説、解釈、世論など)を拾ってくる。他人のためにおかしくなる(支離滅裂、姑息、虚言)のと、自分のためにおかしくなる点が決定的に違う。