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hidew 2009.07.08

#1809 懲りない人 - 「碁法の谷の庵にて」風の精ルーラ氏(2)

あらすじ

努力することなど誰もプロには求めていない。 の内容が発端。

  • 「プロは結果が全て」という派(hidew、東方腐敗氏、茶々入れ氏)
  • 「プロは努力が重要」という派(風の精ルーラ氏、海原氏)

jpg 4554 byte 風の精ルーラ氏が「努力は義務」「神が相手でも勝たなければならない」とまで言い出したから、話がややこしくなった。

その後、神様の碁、光市事件、足利事件、北朝鮮、民主主義、など、スタート地点がどこにあったか分からなくなるほど話が飛んで、今回に至る。

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hidew 2009.07.08 [1]

シーズンIII

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/002002

観客にとっては趣味嗜好。なくなったってつまんない程度である。
しかし、そこで生きていく棋士にとっては尊厳も義務もある世界。

趣味嗜好。なくなったってつまんない程度の囲碁ファンが、プロの尊厳とか義務を熱く語る。一体何様のつもりで「棋士には努力の義務がある」と言っているのか。

タイトル戦の前夜祭に出るとか、ファンサービスに関する「努力義務」はスポンサーとの関係で発生しているかもしれない。しかし「研鑽」という言葉で連想される一般的な「囲碁の勉強」について、棋士は自由である。義務などない。プロなんだから方法も時間も好きなようにやればいい。そして、結果(勝敗)の全責任はプロ棋士個人が引き受ける。

この件に関しては、実はずいぶん前に決着はついている。

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200906070000/

もしも「俺は毎日日本酒を一升飲んで碁盤に一切触れない方が勝てるんだよ」という棋士がいれば、毎日日本酒を一升飲んで碁盤に一切触れないのも、研鑚と私は考えている。

なぜ私は棋士に研鑚を求めるのか - 碁法の谷の庵にて と彼が書いた内容は、「要は勝てばいいんだ」という私の意見と全く同じだったのだ。普段、酒を飲んで、勉強しなくても、本番で勝てばいい。

ここにひとつ、風の精ルーラ氏の大問題がある。

言い逃れとは言え「研鑽」という言葉をこれほど拡大解釈することが許されるのか。彼は一応、法律分野ということを公言しており、言葉は商売道具でもある。

hidew 2009.07.08 [2]

我田引水の長広舌

「棋士は神が相手でも勝たねば」の話から「光市事件」「民主主義」と、どんどん脱線して、ついに「憲法」の話になった。

結局、これがやりたかっただけなのだろう。なにやら演説している。

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/002002

いわゆる「法の支配」や「立憲民主主義」の基本的な発想は「国民の権利を守るために法の内容を統制する」ものであり、.. 以下略

簡単に言えば「憲法は法の法」ということである。6文字で言える。無駄に長く説明しても退屈で眠くなるだけ。

残念ながらhide-w氏には憲法学の基本的思考がお気に召さないように思える。

もう既に、各方面で散々おかしなことを書いてしまった後で、「自分は憲法学の基本的思考をしている」と言っても全く信用がない。面倒なので演説はスルーしてしまったが、また無駄に大げさなことを言ってごまかしているだけに見える。

憲法論議は法曹の人たちで好きなだけやればいい。私は御免。

hidew 2009.07.08 [3]

自由ではない「コミ自由設定選択制」

たとえコミ自由選択でも、○目半と設定しなければならない以上同じ。

なぜ、勝手に「○目半と設定しなければならない」と決めてしまうのか。

「コミ自由設定選択制」なのだから、コミは自由に設定してよい。3.1415目でも、10目でもよい。

神と神が打つ場合を考えれば分かることだが、コミを○目半と設定した瞬間に負けが決定する。つまり、神様同士の場合、○目半という設定はありえず、必ず持碁になる整数コミを設定することになる。

そういえば、多湖輝『頭の体操』という本に「形のいびつなケーキを兄弟二人で仲良く分けるには?」という問題が出てくる。答えは 「一人がカットして、もう一人が選ぶ」というシンプルなものだが、最初の人がどのようにカットすべきかは 簡単に分かるだろう。

hidew 2009.07.09 [4]

【謎】反論風の強い同意

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/002002

それに、藤沢名誉棋聖とて、自分が分かっていないことは素直に分からないと言うだろう。もし分かってもいないことを分かったかのように門下生に説いていたとすれば、それは詐欺師か悪質新興宗教の教祖(実際そういう手口が多いという)がやることである。
そんなに藤沢名誉棋聖を尊敬しているのなら、名誉棋聖を貶めるような書き方をしてはいけない。

???

#1808-8
私は藤沢秀行ばりに謙虚なつもりでいる。入手可能な全ての情報を 100 とするなら、私が集められるのは 1 にもならない。

jpg 4840 byte と書いたのだけど、それに対して反論風に「藤沢秀行という人は、謙虚な人である」と返ってくるのは一体何?

上の文章は「とても謙虚な態度」の象徴として、暗に「自分が分かっているのは碁の 6% くらい by 藤沢秀行」という有名な逸話を引いている。

また、藤沢秀行という人は藤沢名誉棋聖を尊敬するというざっくりした書き方で表現できるものではない。多面的な評価が必要な棋士で、ある一面では尊敬されるが、ある一面では軽蔑される。少なくとも私は多面的な書き方をしてきた。参考 #1768

誤読・誤解もここまでくると 2ちゃんねるの怖いコピペ の類になってくる。彼は一体何を読んだのだろうか。

hidew 2009.07.09 [5]

世論と正しさは関係ない

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/002002

間違った世論に従わなければならないという事態は世の中いくらでもある。

これは、否定しない。

#1808-5 世論と正しさは直接関係がないので、原理・原則を議論する時には世論と正しさを切り離しておくべきである。

と書いている。

残念ながら「神が相手でも勝たねばならない」というのは世論そのものが存在せず、したがって間違った世論に従わなければならないという事態にはなり得ない。

仮に、完全な勝利、無限の努力を求める世論があったとしても、それに否定的な立場をとる人なら、なぜ私は棋士に研鑚を求めるのか という言い方はしない。

結局のところ、風の精ルーラ氏の頭は「世論は正しい」という思考停止か、「世論に従うことは正しい」という付和雷同か、どちらかなのだ。「みんなが言うから自分も言う」というのではネットイナゴと同じである。

#(本当は、自分の発言の責任を「世論=みんな」に転嫁したごまかし、という解釈が一番有力)#1805-16 , #1808-6

hidew 2009.07.09 [6]

お花畑の人々

日本に限らず先進国の理屈は「疑わしきは被告人の利益」。例え弁護団の言うことが真実でないとしても、疑わしいと判断したらそれは裁判所は被告人に有利に考えるしかない。..
誤って判断してしまうと言うけれど、彼自身使っていたフェイルセーフの論理は考えないのであろうか。

「強姦したのは死者を復活させるための儀式」という供述について何が疑わしいのか。そもそも、何を疑うのか。

疑わしくないのに「疑わしきは被告人の利益に」と言ってみたり、何をフェイルするか分からないことに「フェイルセーフ 」と言ってみたり、ごまかしにもなっていない抗弁である。

http://qin.seesaa.net/article/17704151.html

冤罪で泣く人と犯罪者の被害を被り泣く人との和が最小になるようにαの過誤を設定すべきだと思う。

私は実を言うと、島谷氏に発想が近い。私と島谷氏で異なるのは「安全率」の大きさだけである。

厳密に言えば全ての裁判は「疑わしい」、冤罪という「フェイル」に対して完全な安全を確保するなら、そもそも裁判なんてやらず、全員無罪にすることになる。

ものごとには程度ってものがあるだろう。島谷氏の冤罪認識は乱暴だが、弁護士が言う「絶対的な有罪事実認定」は虚妄だ。

風の精ルーラ氏は「現実だ、現実だ、現実を見ろ」と騒いでいたくせに、全く現実が見えていない。彼は「神様が碁を打ったら、」というシミュレーション(思考実験)に対してまで、「現実的ではない」とイチャモンを付けていた。その理由が今なんとなく分かる。「現実を見ろ」というのは、彼がお花畑の理屈を唱えたときに、周りから投げつけられているトラウマの言葉なのだろう。だから、およそ筋違いの場面で使ってしまった。

「強姦したのは死者を復活させるための儀式」という弁護内容のどこが現実的なのだろうか。

hidew 2009.07.09 [7]

正しいという過信

残念ながら「必要な証拠に基づいてしっかりと判断」し、「余計な予断は排除」して判断するという基本的枠組みは微塵も揺らがない。

こういう態度が実は「誤りをいつまでも修正できない筋悪」につながっている。全く残念な話だ。

「うちの子に限って」という親に限って「子の悪事」を何も知らないし、「自分は間違っている」ということを微塵も思わない人に限って、「間違っている」ことすら分かっていない。

hidew 2009.07.09 [8]

他人に厳しく、自分に甘い

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/002002

限られた情報で他人をおおっぴらに侮辱していいなどという理由はどこにもない。

私は一言「弁護団は人としての知性がない ※」と言っただけなのに、風の精ルーラ氏から非難されている。限られた情報では非難できないというなら、自分もそのように振る舞ったらどうだろうか。私が ※ と言った背景をちゃんと探って欲しいものだ。もしかしたら精神耗弱だったかもしれないしpng 1035 byte

別に1:1でドンパチやっている世界に過ぎず .. (裁判官に判断してもらう世界ではないのだから)

こういう言い訳をして、引用もできない人が、他人に対しては非難の理由、判断の根拠となる情報を詳しく示せと言う。なんで私が風の精ルーラ氏にそんなことをしなければならないのか。1:1でドンパチやっている世界に過ぎないのに。

彼が発言の責任を問われる時は1:1でドンパチやっている世界に過ぎず、私が弁護団を非難する時はおおっぴらにやっていることになる。

「他人に厳しく、自分に甘い」というのが、彼の言う多数のスタンダードを場合によって使い分けるということなんだろう。

hidew 2009.07.10 [9]

不十分、不完全という悪あがき

政治家・官僚の抵抗勢力が好んで使う表現に「時期尚早だ」「議論が不十分」という言い方がある。そういう人は 川淵三郎氏が喝破したように 100年経っても時期尚早という

全く同じことが「不十分な情報」という文言にも言えるだろう。

裁判は、検察が 5 か 6 程度の有罪証拠(真実を 100 とする)を示して、その信頼性と重みを精査する作業である。裁判員制度になればもっと極端だ。検察が集めたであろう 5 か 6 の情報を、おそらく 0.5 か 0.6 程度に要約して、極めて短期間でその真偽を判断する。

「不十分な情報」に基づいて判断してはいけない、というなら裁判および裁判員制度はどうなるのだろうか。

「不十分」と言って悪あがきをする人が、「十分ライン」をどこに引いているかと言えば、たいていの場合 100 に引いている。「完全ではない」と言い続ければ、形式上は常に、永遠に、いちゃもんを付けることが可能だからだ。
「完全と不完全」を場合分けするナンセンス

hidew 2009.07.10 [10]

悪質「教えてあげる君」

[6] お花畑の人々 のつづき。

「10人の真犯人をのがしても1人の無辜を罰しない」といっても
1人の無辜を罰しないために1000人の真犯人のがしてもよい」とはならないだろう。

人間のやることだからミスはある。「冤罪ゼロ」という建前を言っていても、現実には不可能だ。

だからこそ私は最後の安全弁として 終身刑導入→死刑廃止 を言っている。あの時もなんだかよく分からない「情報量ゲーム」に参加させられて、話が脱線した。結局のところ、風の精ルーラ氏の衒学趣味 に付き合わされただけで、肝心の「終身刑導入→死刑廃止」についてはほとんど何も論じられなかった。

事件について興味もないと自白しておきながらこの言い草は何さまであろうか。悪質教えてくんのやることである。

悪質「教えてあげる君」というのを今思いついた。テレビニュースやポータルサイトで見る程度の興味しかないニュースに感想を書いたら、「それは違う」「コメントするなら情報を集めよ」「憲法の基本的思考では…」と、興味もなく、教えて欲しくもないことについて演説を始める人のことである。自分から話題を振っておいて、「不十分な情報収集で判断するな。」と言ってしまうマッチポンプ的な文句がとくに悪質だ。関連 [2]

hidew 2009.07.10 [11]

官僚作文「あーでもない、こーでもない」

風の精

典型的な官僚作文「あーでもない、こーでもない」。

(裁判官・検察官に対して)賛意は示していないけど、非難もしない。自分は何の意見表明もできないのに、他人の意見だけは、とりあえず批判しておく。png 946 byte 厄人根性が骨の髄まで染みついている。

「弁護人の言い分を聞いて再鑑定すべき」など、単に結果論の繰り言で勝ち馬に乗っているだけ ref.#1808-9

とうっかり書いてしまっているのだから、今さらごまかしても遅い。

「再鑑定すべき」は結果論、とはっきり言っているではないか。

hidew 2009.07.10 [12]

権威主義、属人思考

ただし、それは彼の見識のなせる業ではなくて、結果論でワーワー言ってるだけなんだということを指摘しているだけである。

彼は、重症の「権威主義」を患っているようだ。「誰が言ったか」ということを不当に重く見てしまって、「何が正しいか」ということが見えなくなってしまう。

風の精ルーラ氏が「どれだけ情報を集めたか」というステータスにこだわり、「誰が言ったか」という属人思考に陥ってしまうのは、自身の判断力に自信がなく、そこに頼らないと何も判断できないからだ。

属人思考はコミュニケーションコストを下げるので一概には否定できない。

  • 羽生善治名人が将棋について語るなら、概ね信用してもいいだろう。
  • 風の精ルーラ氏が碁や司法について語ることは眉唾で聞いた方がいいだろう。

しかし、あくまで善悪、是非は、その事象について虚心坦懐に判断されるべきだ。羽生善治名人が将棋について間違えることもあれば、風の精ルーラ氏が正しいことを言うこともある。

風の精ルーラ氏は、言うに事欠いて「○○は正しいけど、hidew が言うからダメ」とまで言い出した。今時、小中学生の喧嘩でもここまで幼稚ではない。堕ちるところまで堕ちてしまった。

彼は最近、このように言っている。

[7] 「余計な予断は排除」して判断するという基本的枠組みは微塵も揺らがない。

あー恥ずかし

hidew 2009.07.11 [13]

シーズン IV

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/002003

楽天で強○などと言う言葉が使えなくなったのは私がブログを始めて2年以上も後であることも知らないのでしょうかね。

単語の「アフォ・フィルター」が判明する前から「楽天 NG」ということは分かっている。

#274 楽天ブログ 2005.03.05
楽天ブログは全体的にセンスが悪い

センスが悪い理由について、詳細を語ると風の精ルーラ氏のように、KY の長広舌になるので、またの機会にしたい。比喩的に言えば「最初の10手ですでに二桁臭がするほど下手」なのだ。知識のある人は楽天ブログの HTML ソースを見てみるとよい。元々お粗末な上に、4年間全く進歩しなかった。

単語制限の問題は「体調不良の人の吹き出物のようなもの」である。

勝利宣言や慇懃に相手をほめる発言をしたがるのはどういうことなのだろう。

誰が? 何の勝負で? 勝利宣言をした? ほめる発言?

こういうところが全く通じない。だから何回も「(言及対象を具体的に)引用して欲しい」と言っている。

hidew 2009.07.11 [14]

ブログ移転より、推敲を希望する

ちなみに、もし御希望ならはてなの半年近く使っていないセカンドブログに舞台を移しましょうか?

私はどちらでもいい。楽天 や goo などのお粗末なブログサービスは、切り刻んでから(Proxomitron, Firefox, Perl, .. など様々な道具がある)読んでいる。

jpg 15511 byte before
jpg 16466 byte after

HTML のマークアップはいくらでも補正できるが、日本語、文章の不備はどうにもならない。

推敲を切に希望する!

hidew 2009.07.11 [15]

失言の自覚

いや、大好きの主語はあなたなんだけどね。私も、光市の頃は困難でアクセスが増えてもうれしくないとか何度か書いていたのを思い出します。

主語がどうのということではなくて、悲惨な事件にコメントすることに関して、「大好き」とか「うれしい」とかそういう単語が出てくること自体が違和感がある。法曹の世界には凶悪犯罪が大好きな人がいるのだろうか。

たとえば「私は泥棒ではありません」というコメントが何か臭うように、わざわざ「うれしくない」と言うのは何かを示唆している。

言葉のセンスは読んだ人がどう感じるかという問題で、一般的な解はないだろうが、私の感覚では「大好きな足利事件」なんて言い方をするのは、「事件をおもちゃのように考えている」と思えてならない。しょせんはお遊びの他人事だから、光市事件の弁護内容は正当と言ってみたり、足利事件の冤罪は結果論と言ってみたりするのだろう。

彼には失言の自覚すらないようだ。

もんごいか 2009.07.11 [16]

me too

わすも先生と同意見
違和感ありまくりまくりまくりすてぃー

「しょせんはお遊びの他人事」

的を射てますなぁ

hidew 2009.07.11 [17]

神出鬼没

また、風のように通り過ぎていくのだろうけど、もし余裕があれば他のお題についても意見をよろしく。

#とくに「コミ自由設定選択制」などはどうだろうか。

hidew 2009.07.11 [18]

最善手を打ち続けた結果

「最善手を打ち続けた人が負けるべきではない」

この言明をどのように考えるか。

私は true と考えるので、「引き分けの可能性を残す整数コミにすべき」と主張している。※ を false と考える、つまり「最善手を打ち続けたにも関わらず、負けることがあってもいい」と思うのならば、コミ自由設定選択制、整数コミの必要はないだろう。

具体例を引用したら長くなりすぎる。
彼は、現実はそうじゃないという言い分に、なぜか「真理はこうである」としか言ってこなかった。現実はそうであるというのなら、人間が真理を認識できない以上、当然人間が真理を認識できるという論証が必要なはずだが、彼はそれをしない。

また、訳も分からず「真理」という大げさな言葉を使って、後で言い逃れするつもりだろうか。

囲碁の勝負で「一方が勝てば、もう一方が負ける」というのは公理であり、人間が認識できるとか、できないとか、の話ではない。

「最善手を打ち続けた人が負けるべきではない」
→「引き分けの可能性を残す整数コミにすべき」

という展開について、風の精ルーラ氏は理解できないのだろうか。

hidew 2009.07.11 [19]

なにをしても研鑽、結果的に勝てばよい。

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/002003

私は少なくとも研鑽義務をそんなに苛烈な義務として設定したつもりはないのだが。.. まだご理解はいただけないようだ。

とりあえず、風の精ルーラ氏が何を言っているのかは理解した。

  • 棋士には研鑽の義務がある。
  • 研鑽は何をしてもよい。

「研鑽」とか「義務」とか、言葉の使い方が奇妙なので、理解するのに時間がかかったが、「何をしても自由、結果的に勝てばよい」という結論になるのなら、異論はない。

hidew 2009.07.11 [20]

頭の堅い人

またしても碁界の現状から切り離した独自の囲碁システムを考え出している。今の囲碁界がほとんど一発勝負、番碁だって7局しかないことを無視して自分の囲碁ルールを打ちたててもらっても困る。
芸術囲碁界ならそれでもいいが、今の囲碁界では通用しない。

私は最初の碁の本質 - 神と神が碁を打てば から、原理・原則の話をしているわけで、今の囲碁界、は別の問題だ。そこを勝手に混同して、現状を追認することしか言えないのは、要するに「分かっていない」からなのだろう。

それでも、おとなしく現状追認に徹しておけば、問題は起きなかったのに、なぜか「神や悪魔が相手でも勝たなければならない」ということは言ってしまう。今の囲碁界に、神や悪魔がいるのだろうか。png 422 byte

囲碁は調和・均衡を保ちつつ、引き分けになる」という本質、原理・原則をよく考えて、そこから今の囲碁界を見れば、変えられる点はいくらでもある。

  • ほとんど一発勝負? - リーグ戦のそれは必然性がある?
  • 番碁が7局しかない? - 頭が堅いねー

「一発勝負」も「七番勝負」も、天与のシステムではなく、どっかのおっさんが適当に決めたルールなのに、なぜ「変更できない」と思い込んでしまうのだろうか。こんなに頭の堅い人は初めて出会った。

人間の碁、一発勝負、という現実に即して勝敗に揺らぎを持たせるにしても「持碁→白勝ち」という方がいい。なぜ「白半目勝ち」より「持碁→白勝ち」の方が良いか、というのは説明が難しい。運用上はほとんど同じだから、「分からない人」「頭の堅い人」がわざわざ考えなくてもいいだろう。

「持碁白勝ち」ではなく「持碁→白勝ち」と表記したことについても意味はある。風の精ルーラ氏にその趣が理解されるとは思えないので、また別の機会に書こうと思う。

hidew 2009.07.12 [21]

情報収集と分析力

当然このくらいの事実は知って言っているかも知れない(小難しい判例集でなくとも、刑法総論の教科書に普通に載っている)から、..

法律家の間では常識らしい「昭和37年に起きた精神異常者の事件」を持ち出して、「知識ゲーム」をやろうとしたけど、全く相手にならず残念! 私は今から調べる気も全くない。

風邪の精ルーラ氏は、洞察力も、推理力もない節穴さんだと思う。一体なにをどう観察したら、私がそんな訳の分からん事件を知っていて、知識ゲームに応じると思うのだろうか。まぁ、これが彼の言う情報収集と分析力の正体である。何も見えていない。何も分かっていない。

私は法学部ではない(このことも少しブログを読めば分かるはず)ので、小難しい判例集でなくとも、刑法総論の教科書に普通に載っていると言われても困ってしまう。他人にそこまで要求するなら、法律馬鹿の人も、他分野のことを少しは勉強せよ。とくに国語だ。

hidew 2009.07.12 [22]

弁護士にはなりたくない

かつて、スタンフォード監獄実験 という、役を演じているうちに、人格が変わってしまうという恐ろしい実験があった。

B00007FVY3 es[エス] [DVD]

  • 出演: モーリッツ・ブライプトロイ, クリスティアン・ベッケル
  • 監督: オリバー・ヒルツェヴィゲル
  • 2003/01/16
  • 119 分

新聞広告で集められた被験者を「看守役」と「囚人役」に分け、模擬刑務所で生活をさせる…。1971年、スタンフォード大学心理学部で実際に行われた実験を映画化。..「役割」を与えられた人間の心理が無意識のうちに変化していく過程は、予想どおりの展開とはいえ背筋が凍る。


光市事件の弁護団も、犯人の立場で考えているうちに、何か恐ろしい変化があったのではないか。いつのまにか人間性を喪失してしまった。

「強姦は死者を生き返らせる儀式」

こんなものは釈明でも弁護でも何でもない。「狂人の演技」としてさえ成り立っていない。弁護士の職務に忠実だとこんなことも分からなくなるのだろう。つくづく弁護士にはなりたくないものだと思う。

hidew 2009.07.12 [23]

裁判員制度

彼が裁判員にならないことを祈るばかりだ。

私は裁判員の候補に選ばれても「死刑には手を挙げない」と明言する。事前調査でそういう人間は弾かれるという話があるので、おそらく裁判員制度に参加することはないだろう。

法曹の連中は一般人が関わりたくない凶悪事件を処理するために、高い給料をもらっている。裁判員制度は、穢れ仕事を一般の国民に押しつける口実ではないのか。国民の司法参加、意識の向上を目的とするなら、逆に「死刑などありえないケース」に限定すべきである。義務ではなく権利にすべきである。

hidew 2009.07.12 [24]

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