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hidew 2009.06.23

#1805 神が相手でも勝たなければならない?

関連記事

  1. 神=全知全能・完全知・真理の記号
  2. 以前の議論 - コンピュータ囲碁、碁の真理
  3. 「勝たなければならない」と「負けてはならない」の違い
  4. 攻撃的な言説

神=全知全能・完全知・真理の記号

神とか悪魔と言う言葉にいくつもの意味があり、文章の中で意味が異なるのは当たり前の話。

こんな一般論で何かを反論したつもりなのだろうか。

「神や悪魔が相手でも勝たなければならない」という文脈での「神」は全知全能・完全知の比喩であろうと最初に確認したはずである。

これをもって文字通り宗教上の神しか浮かばないよと言うのであれば、本当に彼の目の前では故事成語一句ろくに使えない。

風の精ルーラ氏は書いてもいないことを勝手に読み取って、それに反論する。

私が「宗教上の神しか浮かばないよ」と言うはずがない。一連の議論でいう「神」は宗教的な意味ではなく、全知全能・完全知の比喩 であると何回も説明している。

#なお、日本において「神」は元々、一般名詞である。

神とて同じである。碁神道策なんて本が売り出されているが、実際道策が神だった、あるいは碁を極め尽くした人物であるとは考えにくい。少なくともあの時代においてはもはや他が全く太刀打ちできない、神のごとく強かったからだ。

私の解釈(神=全知全能・完全知)が誤解・曲解であるなら、すぐに指摘すればよかったのに、彼はそれをしなかった。というより、できなかった。

#1771 "悪魔"をどのような意味で使っているのか不明だが、"神"は「全知全能」「完全知」という意味であろう。

この部分をスルーして「まるで宗教家と話しているようだ」と的外れな反論(茶化し、ごまかし)を書く。私は一貫して「神=全知全能」という前提で文章を書いているから、彼が本当に「神=すごく強い」という程度の意味で使っていたのなら、解釈をすり合わせるチャンスはいくらでもあった。

今頃になって神というのは「すごく強い」という意味なのだと言い出した。そういうことはもっと早く言うべきである。

以前の議論 - コンピュータ囲碁、碁の真理

実は、以前にも似たような議論をしている。

だいたいの流れは今回と似たようなものである。

「勝たなければならない」と「負けてはならない」の違い

棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。

png 1840 byte 神や悪魔が相手でもは、本人も「表現が拙かった」と認めているとおりで、これ以上突っ込まないとして、碁に勝たなければならないこの部分も気になる。

  • × 碁に勝たなければならない
  • ○ 碁に負けてはならない。

この違いが分かるかどうかが、「碁が分かる」ということのひとつの指標である。

攻撃的な言説

ただ、ここまで通用している言葉を一方的に曲解し、人にも空想の話だと理解してほしいなどと言っておきながら、攻撃的な言説をいつまで経ってもはき続けなければ気が済まない彼は一体何なのだろう。

自分が批判するときは威勢のいいことを言っておいて、批判される側になった途端に文句を言うのは海原氏とそっくりである。海原

私は、次々に提供されるネタ※に反応しているだけで、ネタがなくなれば書くこともない。

※無駄に大げさで誤ったレトリック。官僚的ごまかし。

いつまでも批判されたくなければ、ごまかしの反論を書かずに、すぐに訂正するか、そのまま受け流すかすればいいだろう。

*

hidew 2009.06.24 [1]

振り出しに戻る

批判されたくなければ、ネタ(テキトーな言論)を提供しなければいいのだが、わざわざ話を元に戻すのは一体どういう了見なのだろう。

少し本格的に振りかえりましょうか。 - 碁法の谷の庵にて

私は、最初、神が相手でも悪魔が相手でも勝たなければならないと書いた。
これは、あくまでも「どんなに強い奴が相手でも、たとえ本当に文字通り極め尽くしたような奴が相手でも、勝たなければ否定的に評価される」と言う趣旨。完全知という意味でも、超越者という意味でも、どちらでも趣旨も結論も変わらないのである。

「碁神道策」の話が出てきたから、「神=すごい人」という程度の意味に修正したのかと思ったら、「神=完全知」に戻ってしまった。つまり、風の精ルーラ氏が言っているのは

棋士は相手が「全知全能」でも勝たなければならない。

ということである。私が説明してきたことは、まるで理解されなかったようだ。

勝たなければ否定的に評価される

LittleEden 神(完全知)に勝たない棋士を否定的に評価するのは一部の「分かっていない」人だけである。

#官僚作文 - 主体をぼかした受動態で「みんな」を臭わせる。

神(完全)を 100 として、人間の最強者を 6 とするなら、他の棋士は 7 に到達すれば十分だ。風の精ルーラ氏は、100 を超えなければ否定的に評価されると言っているのだが、いろいろな意味で分かっていないだろう。とくに分かっていないのが「完全を超えることはありえない」という原理的な話だ。

現実的に起こりえる現象だけが思考の守備範囲である彼に「極限」を考えることはできないのではないかと思う。思考できないのに極端なことを語るから話がややこしい。

くどいようだが、現実、現実というなら「神や悪魔が相手でも…」なんて表現は使わなければよかった。「李セドルや呉清源が相手でも…」と言っておけば、現実的な誇張表現である。

現実の棋戦評価においてはこれがイコールとして表れるのが現実であるし、それを前提に話をしていた。

碁に勝たなければならないという表現は神や悪魔でもと並んで出てくる。それで「現実を前提に話をしていた」と言えるのか。

彼は普段、歯切れが悪い官僚作文ばかりを書いているのに、珍しく言い切った時に限って、とんでもない誤りを犯している。皮肉なことに、今回こそ「必ずしも○○とは言い切れない」という表現を使う場面だった。

hidew 2009.06.25 [2]

テーマの混同

彼の論法は横合いから変な人が来て、テーマからずれたところで攻撃している、非現実的な論法を盾に文句をつけているととる他はなくなったのである。

棋士の研鑽を主題に書かれた記事 から、冒頭の一文を抽出して、それをきっかけに別の記事を書いた。別のテーマで書いたことは明らかなのだから、テーマからずれたところで攻撃と言われても困る。

横合いからのツッコミを本論に対する批判と勘違いをして、「棋士の研鑽の話に、なんで神様の碁が出てくるのか」と言っていた方がおかしい。たとえば「政治の話をしている時に、なんで日本語(誤字・脱字・読み間違い)の批判をされなければならないの?」と言っているようなものである。それはそれ、これはこれ。

ただし、「神様の碁」の話は、過去に「碁の真理」で議論した経緯もあって、単に誤りを指摘したという話ではない。風の精ルーラ氏の囲碁観については以前から気になっていた。

hidew 2009.06.25 [3]

「レトリックに過ぎない」という逃げ

神や悪魔は例えに過ぎないということが分からない相手に、しつこく使うという愚策 ..

レトリックだから (細かいツッコミは勘弁してくれ)」と言っていた海原氏とますます似てきた。

例えに過ぎないというのは、「何の」例えに過ぎないのか。私はその不足部分を補って「神=全知全能の喩えと解釈した」と何回も書き続けているのだが、日本語の通じない相手にツッコミを入れた私が愚かだったのだろうか。

例え話として安易に「神や悪魔でも…」と言ってしまう点がまさに「分かっていない」ということなのだ。それが単にウッカリではないことは、以前の議論と、今回の議論が証明している。

hidew 2009.06.26 [4]

推敲

※※※※※※※※※※追記※※※※※※※※※※

私自身、現実問題を考えるときに、「今年のアマ本因坊戦には李昌鎬が出ます」と言うような場合にどうなるかといった、現実には考えられない事態が今起こった場合を想定した上でこうなるだろう、と言う点から現実分析を説明したことは、彼との問答の中でもあった。

少し推敲してもらえないだろうか。

この文章が何を言おうとしているのか不明だし、後の段落にどうつながるのかもよく分からない。

李昌鎬の例え話は、たしか「セミプロのアマ棋戦参加」という文脈だったはず。今回の話とは関係ない。

hidew 2009.06.27 [5]

事実を捏造 - 「みんな」が言う。

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200906230000/

棋士は相手が人間を超えた相手でも、下手をすれば全知全能でも勝たなければ否定的に評価されるのは、少なくとも今の囲碁界ではその通りである。

勝手に今の囲碁界ではその通りと言っているが、「棋士は全知全能の神が相手でも勝たなければ否定的に評価される」なんて言う人間が、風の精ルーラ氏以外にいるのか?

客観的事実を捏造してまでとんちんかんな主張をする。

彼は「碁が分かっていない」というより、もっと基本的な「道理が分かっていない」ようだ。

hidew 2009.06.26 [6]

オレ様言論

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200905110000/

棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。

この文章は、彼に言わせると「現状分析」だそうだ。

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200906230000/

.. 現状分析に対し、お前は分かっていないという。
.. 「現状このように見られている」という分析に対し、..

「その言明が誤っているとしても、自分の考えではない、世間がそう考えているのだ。」と言いたげである。しかし、実際は全く逆、「神や悪魔が相手でも勝たなければならない」というのは、彼だけが勘違いをしていることである。

  • 自分が考えることは「みんな」も同じように考えるはずだという思い込み。
  • 「自分の言論」ではなく「みんなの言論」を装って、自分の責任を逃れようとする態度。

いずれも幼稚なオレ様言論の特徴である。

hidew 2009.06.27 [7]

脚色無用

例えば、今いきなりどこぞの天才少年少女が何らかの原因で本当に碁を極め尽くしてしまったと仮定しよう。(サヴァン症候群とか?)そうなった彼の極め尽くしに国際戦で全く勝てない日本棋士がどう扱われるか。

現実を踏まえた議論にこだわっていた割に、自分は「仮定の極論」を書き続ける。またマッチポンプの罠ではなかろうか。

「碁を極め尽くした存在」として「神」という記号を何回も使っているのだから、今さら「サヴァン症候群の天才少年」という脚色は無用である。「神」とか「サヴァンの天才」とか、そこは本質ではない。結論は同じだ。

囲碁ファンもいろいろである。相手が全知全能であっても(勝てない棋士に対して)不当な非難をしそうな人はいる。少なくともここに1人。

hidew 2009.06.27 [8]

モンスター囲碁ファン

彼の極め尽くしに国際戦で全く勝てない日本棋士がどう扱われるか。.. マイナスに評価されることは全く疑いようがない。

勘違いによる不当な言いがかりは続く。

たとえば、モンスター・ペイシェント(理不尽な患者たち)は、「医者は患者の命を救うべき」ということを果てしなく拡大して、「現代医療では救うことが難しい症例」あるいは「緊急には対応できない事情」に対しても、医者を非難してしまう。要するに

不可能なことでもやれ!

風の精ルーラ氏の態度は、さながら「モンスター囲碁ファン」とでも言うべきものである。「全知全能の神が相手でも勝て!」と理不尽な要求を突きつけて、「勝てなければマイナスに評価されることは全く疑いようがない」と言ってしまう。その評価が誤っていることを少しは疑って欲しいものだ。

hidew 2009.06.27 [9]

プロ棋士の勝敗

だが、棋士たるもの仮に90が出たら91がなければいけない。99が出たら100がなければいけない。

彼は「現実を踏まえた議論を」と言っていたのに、90 とか 99 とか、非現実的な仮定の数字が踊っている。自分の言ったことを自分は無視して、仮定の極論ばかりを書き続けている。

「最強者が 6 なら、7 に到達すれば十分」というのは、一局の碁で言えば「1目も勝てば十分」ということだ。長期の話に敷衍すると、たとえば高尾紳路と李セドルの対戦成績が 51勝49敗 ならば、高尾紳路の「勝ち」である。

  • 「100目勝ちじゃないから不十分」
  • 「100勝0敗 じゃないから不十分」

というような台詞は碁が分かっていない人の言うことである。

棋士の(長期的な)勝敗を判定する際は「獲得賞金額」が重要な要素になる。「勝ち組」「負け組」を分かつ明確な基準はないが、賞金だけで生計を立てられるプロ棋士は、十分に勝っている。

hidew 2009.06.28 [10]

レトリックでメチャクチャ言う

100が出たら100で対抗するしかない。(この場合、常に○目差の碁ばかりか、無勝負の碁ばかり打たれることだろう)

彼は「現実を踏まえた議論を」と言っていたのに、.. (以下略)

しかし、レトリックといっても一般名詞同然に使われている派生語などいくらでもあるし、例えとして実際にはまずないけど起こったらどうなるというのは往々にしてある。

「一般名詞」という言葉をどう解釈しているのか謎。

私が碁の本質 - 神と神が碁を打てば、 を書いたら、風の精ルーラ氏は「非現実な例え話を出すな」と文句を言い出した。同じ口で例えとして実際にはまずないけど起こったらどうなるというのは往々にしてある。と言うのは、相変わらずのマッチポンプである。

.. 周辺の文脈と合わせて趣旨を理解するのは、当然読み手側の責任となることはいくらでもある。.. ある一定程度のレトリックにおける書き手と読み手の齟齬は、書き手の責任を問われることもあるし、残念ながら少なくとも書き手の責任ではない不幸な誤解と判断されたり、内容によっては読み取れない読み手の方が非難されるようなこともある。

和風素材/篆刻素材AOI 一般論を長々と書いてごまかそうとしている。

私が「逃げ」と批判しているのは、神や悪魔は例えに過ぎないということが分からない相手に、.. という部分だ。例え話ということは当然として、だから何だと言うのか。例えに過ぎないからテキトーなことを書いても見逃してくれと言いたいのか。

「神が相手でも勝たなければならない」という誇張は上限を突き抜けてしまう。「20000% 出馬しない」の某知事と同じで、文系馬鹿のレトリックである。大げさに言うにしても限度があるということを理解しなければならないだろう。

http://igo-omishiriokio.at.webry.info/200901/article_37.html

もし実態とかけ離れていたら申し訳ありません。だとしたらそうしたことを全然報道しない囲碁メディアのせいです。一ファンである私はメディアからしか情報を得られないので、私の責任ではありません

海原氏はこの一文が批判されたとき「レトリックだから」「レトリックにすぎない」と弁明した。海原氏の場合、レトリックの意味も分かっていないので論外だが、レトリック(誇張、比喩)であっても、誤りがあれば批判される。

hidew 2009.06.28 [11]

誤読には2種類ある。

神様という言葉を使ったことに威勢良くつっこんだはいいけど、結論的に定義がそこまで本題と関係なかったので、私の言葉遣いが悪いんだ、といっているようにも思える。

碁の本質 - 神と神が碁を打てば を読めば分かるとおり、風の精ルーラ氏の文章は「きっかけ」として利用しただけである。「つっこみ」という意図はあったものの、本題(棋士の研鑽)と関連づけるつもりは元々ない。

ただ、彼が本題と考える部分についても「余談」として書いておいた。それは「本題とは関係ないところをメインに書いた」というメッセージである。結論的にではなく、最初から本題と関係ないのである。

誤読には2種類ある。

  1. 書いてあることを読み飛ばす。
  2. 書いてないことを読んでいる。

風の精ルーラ氏はどっちもよくやる。今回は前者である。

hidew 2009.06.28 [12]

一連の議論を通して分かること

一連の議論を通して結論的に分かったことは、

棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。

この文章がやはり「碁が分かっていない」ために発せられた根深いものであるということである。

風の精ルーラ氏が「ちょっと言い過ぎた」とでも返していれば、私のツッコミは単なる「揚げ足取り」になっていた。しかし、彼はごまかしの反論を続け、いまだに「全知全能の神が相手でも、勝たなければ、否定的に評価される」という発言のおかしさを理解していない。

碁神道策のくだりで、少し気付いたのかと思いきや、直後に卓袱台をひっくり返して「神=全知全能でも趣旨は同じ」と言ってしまう。少し強引だが「神は全知全能ではなく、単に'すごい人'という意味だった」と言っておけば収まりがついたのに。

kawaguti 2009.06.29 [13]

疑問

「誰が相手でも、勝たなければならない」
というのは勝負師として求められるものではありませんか?
(相手が全知全能だとは知り得ない。という前提付きだが)

碁の本質だとかいうものとの関連は薄いように思いますよ。

hidew 2009.06.29 [14]

全然別の話

「相手が全知全能だとは知り得ない。」というのは、全然別の話です。

棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。

という部分が問題なのだから「相手が全知全能だと判明した場合」という前提で、それでも「勝たなければならないか?」という話でしょう。

hidew 2009.06.29 [15]

話のすり替え

再追記

それは、全知全能と理解するかということ。本当に全知全能と分かるなら、勝てなくても仕方ない扱いされるかもしれない。

和風素材/篆刻素材AOI(葵) 私がおかしいと指摘した文言は棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。である。「相手が全知全能だったとして…」という仮定の話だ。回りくどい言い方をすれば「対局相手が全知全能であり、それを周囲が知り得たとして、それでも勝たなければならないか?」という話である。

風の精ルーラ氏は「対局相手が全知全能だと分かるか否か」という全く別の話にすり替えている。

本当に全知全能と分かるなら、勝てなくても仕方ない扱いされるかもしれない。

まだ不十分だが、一歩前進した。

全知全能と分かるなら、勝てなくても仕方ない

このように言えばよい。

私がしつこく言っているのは「勝てなくても仕方ない場合がある」ということである。

hidew 2009.06.29 [16]

「みんな」に自分の意見を言わせる

今度のアマ本因坊戦では李昌鎬が出るというのは、あり得ないことが起こったと仮定して、それに対してどのような反応が起こるかという話であり、今回もまさに全知全能の登場というあり得ないことが起こって、それに対してどのような反応が起こるかを考えている。

あり得ないことが起こったと仮定して、.. というメタ思考を言うために、わざわざ「アマ本因坊戦、李昌鎬」の事例を出す必要はないだろう。碁の本質 - 神と神が碁を打てば は最初から仮定に基づく思考シミュレーション なのだから。

彼は当初、宗教論だの、芸術論だの言って話を逸らしていた。今頃になって「仮定に基づく思索」を理解したということだろうか。「現実にこだわらず、思考の幅が広がった」のはよいことだ。

.. どのような反応が起こるか ..

[6] で指摘したとおり、「みんな」に自分の意見を代弁させるという態度がよくない。厳密に言うと「みんなに自分の意見を言わせて、自分はみんなとは違うという態度をとって、責任逃れをする」ことがよくない。

たとえば、こんな感じの例文を作ることができる。

「風の精ルーラ氏は碁が分かっていない」と、みんなは言うだろう。

責任逃れの一言を付け加えれば完璧だ。

みんなはそう言うかもしれないけど、私はあえて何も言わないよ。

hidew 2009.06.29 [17]

主観と客観の混同

無論根拠は脳内。論拠はあってもアンケートを取ってはいない。それを開陳したからと言って客観的事実の捏造になるわけなどない。競馬新聞の予想が外れたからと言って客観的事実の捏造になるわけがないのと同じだ。

他者(多数派)の動向を分析すること自体は意味があるが、風の精ルーラ氏のやっていることは、そのようなものではない。言い逃れをするために、「神が相手でも勝たなければならないと考え、勝てなければ否定的に評価する」という行為の主体を、「自分」から「みんな」にズラしただけの話である。

おそらく本人も姑息な言論だということを自覚しているのだろう。

答えはノーだ。当然マイナス評価である。.. マイナスに評価されることは全く疑いようがない。

当然とか全く疑いようがないとか、無意識のうちに言葉の調子を強めてしまう。「他人がどのように考えるか」という予想・推測に対して、全く根拠のない確信を持って、断定してしまうのだから面白い。

オレ様化する子どもたちは主観と客観の区別がつかない。

hidew 2009.06.29 [18]

論理学

「相手が全知全能だとは分からない。」という論点ずらしのごまかしに、あえてのってみる。

「相手が全知全能だとは分からないのだから、相手が誰でも勝たなければならない。」という言明は正しいか?

「全知全能とは分からない」は「全知全能ではない」を意味しない。「全知全能かもしれない」という可能性が残されている。

#念のため言っておくと、これは現実ではなく論理の話だ。

相手が全知全能だとは分からないのならば、「勝たなければならない、かどうかも分からない」と言うのが正しい。

あるいは、もっと分かりやすく、

相手が全知全能ではないと保証される場合のみ、「勝たなければならない」と言える。

hidew 2009.06.30 [19]

客観的事実を装う

無論根拠は脳内。論拠はあってもアンケートを取ってはいない。それを開陳したからと言って客観的事実の捏造になるわけなどない。競馬新聞の予想が外れたからと言って客観的事実の捏造になるわけがないのと同じだ。

「客観的事実の捏造」という表現がお気に召さないのならば、「主観的意見を客観的事実であるかのように偽装・強調して語る」と言い換えよう。

そういえば海原氏は、王立誠VS柳時薫の棋聖戦で、王立誠が打ち上げた行為を非難する論拠として「囲碁ファンみんなが不快に感じるから」と言っていた。(#1730 ) 「不快に感じる」というのは海原氏個人の主観的な感想にすぎないのに、それを客観的事実であるかのように語り、それを根拠として「王立誠は普遍的に非難されるべき」とまで言ってしまう。

風の精ルーラ氏と海原氏は、同じ法律関係で思考回路が似ているのか、あるいは世代的に同じような教育を受けているのか、いずれにしても、「自分が考えることは、他人も同じように考える」という思い込みが強すぎる。しかも、この人たちは「みんなが考えることは正しい」ということも同時に信仰していて、

  1. 「みんなはこのように行動するだろう」と勝手に思い込む。
  2. 私の意見の根拠は「みんながこのように行動すること」だ。

と論理を展開する。このような構成は二重にインチキがある。

hidew 2009.06.30 [20]

インチキ言論の例文

たとえば、ある新聞社が

麻生首相は今すぐ退陣しろ。なぜなら世論がそう言うからだ。我が社の予想では疑いようのない事実である。

という社説を展開したらどうか。

退陣を要求するのはいいだろう。世論調査・分析をするのもいいだろう。しかし、社内(脳内)で作り上げたテキトーな世論を自説の論拠として用いてはいけない。

海原氏や風の精ルーラ氏がやっていることはこれと同じである。海原氏が「王立誠の行為は不愉快」と言ったときは2,3人の賛同者がいたようだし、そう感じる気持ちも分からなくはないが、風の精ルーラ氏の「神が相手でも勝てなければ、否定的に評価される」という評価はそもそも間違っているし、賛同する人がいるのかどうかも疑問である。

hidew 2009.06.30 [21]

言論のサカレ形

基本的な論証の方法をカルトと同じにされても困る

もちろんこの世から法律がなくなるなどということはあり得ないが、それによって法律の機能その他を見定め、現実を支えている事情が何なのかを見抜くために必要である。
...

「仮定の極論を持ち出すな」と言っていたのは、私ではなくて、風の精ルーラ氏である。

「仮定の話をするなと言っていた割に、自分では仮定の話ばかりをしているね」と何回も皮肉を言ったら、「仮定の話をすることはある。必要だ」と言い出した。滔々と続く自分への反論 png 409 byte

その場その場で姑息な対応を積み重ねて、自分の言ったことを自分で否定してしまうのは、碁でいう「サカレ形」のようなものだ。

当然、ここであり得ない例えを使ったという一事をもって、現状を踏まえない議論に当たりうるわけはない。
言ってみれば、「現状を思考・把握するための極論」である。

それは自分に言い聞かせて欲しい。私は最初から分かっている。

hidew 2009.06.30 [22]

極端を考える

基本的な論証の方法をカルトと同じにされても困る

ルールというのはある程度極端な場合にも一律に適用されることに特徴がある。だから、極端な場合をルール論に際して考慮することは程度問題ではあるが必要である。

その通り。

原理・原則を無視して、現実を追認するようなことしか言わないのは「ご都合主義」「場当たり主義」である。そのような態度は、ルール論に限らず誤っている。

「現実に対戦する相手は弱いから」→「誰が相手でも勝たなければならない」という意見は、「極端」を考えようとしていない。果てしなく強い相手を考慮していくと、勝てない程度、勝たなくてもよい程度が増していき、対局相手の強さが極限(=神=全知全能)に達したとき、勝つことは不可能になる、つまり、全く勝たなくてもよくなる。

「誰が相手でも勝たなければならない」と単独で言った場合、常識的に想定される対局相手は「人間レベル」だから、「全知全能が相手なら…」というツッコミは野暮だろう。しかし、「神や悪魔が相手でも」と付け加えたら、思考の範囲を「極端」に拡張していることになる。彼は自ら広げた思考の範囲(に対するツッコミ)を「現実的じゃない」と自分で文句を言っていた。

今また「極端な場合を考えることも必要」と言い出したのは、進歩か、姑息か、マッチポンプマッチか。

hidew 2009.06.30 [23]

分かりにくい文章の理由

基本的な論証の方法をカルトと同じにされても困る

同じことを言っても、文脈や趣旨によって理解が異なるという理屈か、極論を現状分析の手法として使うことがあるという現実か、少なくとも彼はどちらかが理解できていないのであろう。

私はご都合主義でコロコロ変わる「オレ様論理」まで理解しようとは思わない。それでも、無駄に長く肝心のことは書かれていない悪文を、辛抱強く読んできたつもりである。

風の精ルーラ氏は、なぜ、分かりにくい文章ばかりを書いてしまうのか。

ひとつは単純に文章力の問題である。もうひとつは「言質を取られないようにする官僚作文」である。責任をとらなくてもいいようにメッセージをほのめかす、行間を読ませるのである。わざとピントをずらしているうちに書いている本人まで混乱してきて、ピント外れの方をメインに書いてしまう。

風の精ルーラ氏は自分の毒に自分がやられてしまって、何を読んでいる・書いているのか自分でも分からなくなってしまうのだ。

前から批判しているが、URL(出典、言及先)を記載しないという姿勢を見るだけで「分かりやすくプレゼンする」という意志がないことは分かる。根底には「察してくれるだろう、分かってくれるだろう」という甘えもあるだろう。

hidew 2009.06.30 [24]

神 VS 悪魔

ところが、彼はその真理の通り、全ての前提事実を皆が知って、それに基づいて自分と同じように考えるという理屈を前提にし、..

これは日本語、論理の問題である。

彼は「神=すごい人」という解釈の逃げ道を拒否して「神=全知全能・完全知」という定義を認めた。今度は「全知全能」の言葉の意味を確かめなければならないのだろうか。

屁理屈のためにわざとごねているのか、本当に日本語が不自由なのか知らないけど、全知全能の語義を考えれば「相手が神(全知全能)でも勝たなければ」という言明が誤っていることは分かる。

【全知全能】の意味 - goo辞書

あらゆることを知り尽くし、どんなことでも行える能力。完全無欠の知能。

とりあえず「神 VS 悪魔※ の全知全能対決」を考えてみれば、分かりやすい。
「双方が勝たなければならない」としたらどうなるのか。→ 背理法

※悪魔が全知全能なのか知らんが、そういうことにしておく。

これで分からないというなら、私にはお手上げである。子どもの「なぜなぜ質問」のごとく無限後退する問いにいつまでも付き合うことはできない。

hidew 2009.06.30 [25]

推敲・翻訳を求める。

基本的な論証の方法をカルトと同じにされても困る

真理のわからない人間がやるから碁は競技になると言っていたのなら、こっちだって人々が本当に真理を認識できるのかという点を改めて論証しなければならないだろう。実際の真実が曲がって伝わってしまうことなど、現実にもよくあること。その可能性を踏まえないでいくら囲碁がわかっていないといっても、何の価値もない。

本人も何を言っているか分かっていないだろう。

  • こっちとは?
  • 真理を認識とは?
  • 「真実が曲がって伝わってしまう」ことを踏まえて「囲碁が分かっていない」と言えば価値がある?

???

「人間が打つから碁は勝負になる」と言う部分だけは理解できた。たしかに私はそう発言している。

hidew 2009.07.01 [26]

今からでも遅くない

結局、現状分析の結果、その現状と私はイコールになり、私は彼から一方的に碁がわかっていない扱いされている。

やはり「みんな=現状分析」と「自分の意見」を違うことにして、言い逃れする魂胆だったか。[16]
まあいい、今からでも遅くないから、

  • 私は『神や悪魔が相手でも勝たなければならない』とは思っていません。
  • 全知全能の神に勝てなかった棋士を否定的に評価することもありません。

と言ってみたらどうか。

hidew 2009.07.01 [27]

唐突で意味不明なコメント

基本的な論証の方法をカルトと同じにされても困る

現実が真理(..)と同じになるという妄想を抱いて、

この唐突なコメントは何だろう。

「どのような現実」が「どのような真理」と同じになると言うのか。

私は現実が真理と同じに .. なんてことは(誤解の種になることさえ)一言も言っていない。逆の意味のことは何回も言っている。「仮定の極論と現実を混同するな」と。

この理屈こそが結論を導くために重要な部分になっているのだから、それはおかしいと噛みついておいて、さらに結論にもおかしいと噛みついておいて、両者に因果関係がないと思うのであればそれは大間違いである。

この理屈? 結論?

独りよがりの文章が暴走していて、文意を全く読み取れない。

「この」って書いてあるから、直前の現実が真理と同じになるという妄想を抱いて、それを論拠を示さず押し付けるという部分を指していると解釈して、ここが全く意味不明だからどうしようもない。

書いていないことを妄想で読み取るのではなく、引用して「この部分が、このように問題だ」と具体的に指摘して欲しいものだ。

hidew 2009.07.01 [28]

全体を見る。長期を見る。

私の主張の前提にあるのは、もう一つ、「負けてもよい碁」などというものは棋士が公式戦で金をもらって対局する限り存在していないだろうという点である。

最初から「負けてもよい」という心構えで打つということではなくて、結果的に「負けてもよい」ということである。

風の精ルーラ氏がどの立場でものを言っているのか不明だが、「負けてよくない」と思っているのは本人とその周囲のファンだけである。全体から見れば誰かは「負けてもよい」、アンチから見たら「負けた方がよい」とさえ言える。

長期的な目線と、一局の碁としての目線は、置換できないものだ。少なくともスポンサーは棋士の何十年というスパンで見た囲碁人生を買っているのではなく、一局一局の碁を買っているのだから。

短期を見つつ長期を見通すことができないのは、単に能力が足らないだけである。ついでに言えば局所と大局の両方を見ることも大切だ。

目線が一カ所にロックオンしたまま、視野狭窄、近視眼に陥ってしまうのは、初心者の碁と同じだろう。碁は「戦略と戦術」「部分と全体」が密接に絡み合っている。

スポンサーが「一局一局の碁を買っている」という認識は狭すぎる。囲碁の棋戦は包括的なパッケージで契約が結ばれている。一局単位で盤上の物語を楽しむこともできるが、しかし、同時にもっと大きな、棋戦全体の物語も買っているのだ。

ある閉じた棋戦においては当然だが「勝数=敗数」である。必然的に生まれる敗者というのはマクロな視点から見れば「物語の一部」にすぎない。プロ棋士全般を語る文脈にも関わらず(勝てない棋士は)「否定的に評価される」と言ってしまうのも私には違和感がある。

hidew 2009.07.01 [29]

みんなが○○するから

基本的な論証の方法をカルトと同じにされても困る ※追記※ - 碁法の谷の庵にて

すっかり彼は現実的思考から逃げてしまっているか、でなければ色々な有用・必要論法が分かっていないと思われる。彼の論法を適用したら、いくつもの大切な分析や理屈の組み立ては成立しなくなってしまう。

まるで、自分は立派な論法で語っていたような言い方だが、実際は、

防腐剤
「棋士は全知全能の神に勝てなかったとしても、(みんなによって)否定的に評価される」というのは疑いようのない事実で、それにしたがって、ほげほげ…

これが風の精ルーラ氏の論法である。

「みんなが○○するから仕方ない」という現状追認・付和雷同を語っていただけである。そもそも、元になる「現実・現状」さえでっち上げているのだから、噴飯ものだ。法曹の世界では人を煙に巻くために有用かつ必要なのだろうか。

せめて、「みんな○○するから」ではなく「みんな ○○する」と言って欲しいものだ。自分の意見・判断を足すことなく「みんなが○○するから仕方ない」とだけ言うのは、小学生レベルの言論である。

hidew 2009.07.01 [30]

不可能なことをやれと言った

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200906280000/

そして、何度目に書いたのかわからないが、私は棋士に不可能なことをやれと言ったことはない。

全知全能の神に勝つことは可能?

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200905110000/

棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。

と言っている。

ただし、[1] で認めてしまった「神=全知全能・完全知」という解釈を「神=すごい人」に再々修正するのならば、神に勝つことは不可能ではなくなる。

不可能なことをやれと言った事実は確実にあるが、素直に修正すればいいだけの話だ。

hidew 2009.07.01 [31]

元々言ってました?

全部勝つ義務というのを本来考えるべきだと思うが、それは実際には無理。そもそも棋士は何人もいるからそれこそ矛盾。
それなら、全部勝てなくても義務違反だとはいえない、しかし予備的に研鑽義務があるというべきだろうというように論理を持って行っている。
これは何度か書いているのだが彼はいつまでたってもその点に対しての反論という形にしないままに無理言ってる無理言ってると騒ぎたてている。この理屈がおかしいというのはよいが、反論を書かないでおかしいと騒がれても困ってしまう。

彼は、さも「元々言ってました」というような顔で、言葉の解釈を変えたり、文言を微修正したりする。

前は「棋士は勝つ義務がある」「勝つ=絶対無敵」と言っていた。私が 世界最強の李セドルに向かって努力が足りないと非難するのは馬鹿みたいでしょ と言ったとき、「絶対無敵の全勝ではないから、李セドルにも努力の義務がある」と言っていた。

それが今では全部勝てなくても義務違反だとはいえない、しかし予備的に研鑽義務があると無難な表現に改まっている。最初からそのように言えば良かったのだ。研鑽というのは負け組の棋士が「予備的」に求められるかもしれないが、義務ではない。

彼は当初「納税の義務」という例え話を出しつつ義務という言葉を使っていたが、途中で「義務=精神的訓示」という解釈に変えようとした。「納税の義務」の流れではまずいと思ったのだろう。

最初から「プロ棋士は誰が相手でも勝てるように努力しましょう」と精神的訓示を言えばいい。「神が相手でも勝たねばならない」とか「努力の義務がある」とか、無駄に大げさな表現をつかうからややこしくなる。

hidew 2009.07.01 [32]

最善を超えたパフォーマンスを求める愚

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200906280000/

モンスターペイシャントの例 .. 最善の治療を施す義務があるだろうというように論理を持っていけばよい。

それは当たり前。最善の治療を求めるのは「普通」である。

私が言っているのは「最善を超えた治療」を施す義務はないにも関わらず、それを求めるモンスターがいるということだ。

棋士だって、全勝できるはずはないし、全知全能の神に勝つことは不可能なのに、風の精ルーラ氏はそれを求めてしまう。

それでもなお最善の治療(時代・設備・技能など)とは何だという点を突き詰める必要があるが、少なくとも突き詰めの結果最善と評価される医療をしている限りにおいて、責任がどうだという話にはならないのである。

これも当たり前だが、なぜ囲碁において同じこと(棋士の結果を突き詰める)ができないのか。

hidew 2009.07.02 [33]

曲学阿世

ろくすっぽ主張を正解しないで弁護団はドラえもんの実在を信じるのかなどとバカ騒ぎしていた連中と発想が同レベルである。

風の精ルーラ氏も「光市事件の弁護団はいい加減にしろ!」という「みんなの声=現実・現状」には散々文句を言っていた。内心では「みんなの声が正しいとは限らない」と思っていたのだろう。

ところが、今回は「みんなの声」をとりわけ重視するという態度に変わった。「みんなの反応」を脳内で作り上げて、それを自説の唯一の論拠にするという愚挙に出た。屁理屈のためなら何でもやる。

仮に「神が相手でも勝たなければならない」と言う人が現れたとしよう。それを前提に論を組み立てるという態度は正しいのか。

そういうのを曲学阿世と言う。政治家や法律家が陥りやすい罠である。


『神が相手でも勝たなければならない』は誤り。

風の精ルーラ氏が誤っているのか、「みんな」が誤っているのか、はたいして問題ではない。

全知全能の神が相手なら、勝つ必要は全くない、勝てなくて否定的に評価されることもない。

この点を彼が理解したならば、彼の脳内で妄想された「みんな」が誤っていた、ということにして「神が相手…」の話は終わり。

hidew 2009.07.02 [34]

脱線1 - 光市事件の弁護団について

彼の弁護観も自分勝手に「いくらなんでもやる必要はない」などと線引きをし、かなりな俺様であった。
あれではとてもではないが王立誠ダメ詰め事件批判者を非難できないだろうな。

どさくさまぎれに2つも蒸し返した。これは長くなるかも。

光市事件の時は、「弁護内容がおかしい」という世論が(彼の『脳内妄想世論』とは違って)厳然とあった。

J-CASTニュース : 遺体「強姦」は死者復活の儀式 弁護団が「失笑」ものの新主張

主婦を殺害した後、強姦したのは、死者を復活させるための儀式だった。こんなとんでもない主張を、山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審で弁護団がした。ほかにも死刑回避を狙った独自な見方が示され、遺族は「怒りを通り越して失笑した」と批判している。

「弁護士として恥ずかしい」 .. 大澤弁護士によると、「不可解で不合理な話をして被告の精神がまともではない。だから責任能力は少ない。当然死刑は適用すべきではない」という論理につなげるために、弁護団は事実を曲げようとしている。死刑を回避するための捨て身の戦法、というわけだ。

世論の怒りに対して風の精ルーラ氏が(屁)理屈をごちゃごちゃ書いていて、それを見た私が「世論が怒るのは当たり前だ」と言ったのである。

「強姦したのは死者を復活させるための儀式」 - 風の精ルーラ氏はまさかこれが通用すると思っているのか。こんな理屈は「通用しない」と断じていい。これほどの愚かな言い分をそのまま垂れ流してしまう弁護団には、人としての知性がない、機械と同じである。被告人の前に「弁護士」という名の拡声器でも置いておけばいい。

光市事件の被告・弁護団に世論が怒る。 - これが「現実」png 422 byte

和風素材/篆刻素材AOI(葵) 彼は、脳内で妄想した「みんなの声」を何の疑いもなく論拠として強調するのに、立場が逆の、厳然として存在する「みんなの声=現実」には耳をふさいで、自分の言い分だけを一方的に述べる。お調子者というか、ご都合主義というか、行き当たりばったりの姑息な態度である。

hidew 2009.07.02 [35]

脱線2 - 王立誠ダメ詰め事件について

王立誠ダメ詰め事件については、既に書いたとおり。

海原氏は「王立誠の行為は普遍的に非難されるべき」と言っておきながら、その理由をまったく説明できなかった。結局、王立誠は何も悪くない。

一連の議論 → 光市事件の件 → 王立誠ダメ詰め事件の件、脱線に次ぐ脱線で、議論を混乱させてしまうのは相変わらずだ。脱線にいちいちお付き合いしてしまう私にも問題はあるが。

hidew 2009.07.02 [36]

カルトと同じ論証?

基本的な論証の方法をカルトと同じにされても困る

こういうこと言うから、いちいちツッコミを入れなければならなくなる。

先日、「貧困なる宗教観」を晒した人が、また「カルト」という言葉を使っているのは怪しげだ。カルトがどういうものか分かっているのだろうか。

カルトと同じ論証とは具体的にどのような方法を言っているのか。

hidew 2009.07.02 [37]

「皆が」と言う責任逃れの意識

Twitter / Akihiko Koizuka

おおよそ、「皆が」とクチにするひとは、その当人自身が対象であって、自身の責任というか矛先を緩めたいという無意識が働くことで、そのような言動になると俺は思ってる。

hidew 2009.07.03 [38]

思い込みが虚構の「みんな」を作り出す

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200905110000/

棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。

防腐剤 こういう書き方をしておいて「これは自分の意見ではない」と後付けするのは、いかにも苦しい言い逃れだ。見逃してあげてもいいと思っていたが、人の非難を続けるありさまはあまりにも見苦しすぎる。 - こういう逆ギレを書くようでは、こちらも言わざるを得ない。

「『神が相手でも勝たねばならない』というのはおかしい。風の精ルーラ氏は碁が分かっていないのではないか」

私がこう書いたとき、『 』が風の精ルーラ氏の意見でないのならば、その誤解を解消する方向に説明すれば良かった。しかし、彼は、「当然、神が相手でも勝たねばならない。勝てなければ否定的に評価されるのは疑いようがない」と逆方向へ強めてしまう有様だった。

彼自身も「神が相手でも勝たねばならない」と思い込んでいた節がある。もっと言うなら、彼の思い込みが虚構の「みんな」を作り出したと言っても過言ではないだろう。

「神が相手でも勝たねばならない」と言う人々は彼の脳内にしかいない。

hidew 2009.07.03 [39]

責任逃れのヘタレ言論

jpg 7786 byte 風の精ルーラ氏の言論でとりわけ問題なのは「自分の意見ではない。みんなの意見を分析しただけ」という責任逃れの姿勢だ。これでは「マスメディアの記事を受け売りしているだけなんですけどー、」という海原氏となんら変わらない。そういえば、海原氏を擁護しようとした? kawaguti 氏 も「自分の意見ではない。海原氏の意見を代弁しただけ」とバリアをはって、実際には自分の意見を展開していた。

最近はそういう「ヘタレ言論」が流行なのだろうか。

他者を勝手に防護壁にして、自分が批判されないようにしてから、トンチンカンなことを言いたい放題。何を言ってもいいけど、その責任は自分で引き受けよう。他人の意見を引くなら、それに対する賛否くらいは付記しよう。

関連

[16] 「みんな」に自分の意見を言わせる
[37] 「皆が」と言う責任逃れの意識

kawaguti 2009.07.03 [40]

おっちょこちょい

海原氏を擁護しようとした? kawaguti 氏 も「自分の意見ではない。海原氏の意見を代弁しただけ」とバリアをはって、実際には自分の意見を展開していた。

「高岡氏は行動に気をつけるべきだった」は私の意見ではなく、私が解釈した海原氏の意見。です。なのでこの意見の妥当性についてしつこく聞かれても、私の回答には限界があります。(解釈の妥当性と意見の妥当性が近いのは確かですが、同等ではありえないでしょう)それが私の文章の解り難さに繋がっていたのかもしれません。

「海原氏の意見の代弁については、自分は海原氏じゃないから限界がある(私の解釈・推測でしかない)」という文章です。
(hidewさんの非難では逆になっているようで)
後にそうしたように、解釈の妥当性と意見の妥当性は共に論ずるべきでしたがね。

hidewさんはとんちんかんな非難(非難する事は間違っていないが、理由・過程が…)をときたまやらかすのが、愛嬌があるというか、憎たらしいというか。

hidew 2009.07.03 [41]

勝手に代弁、勝手に投げる

頼まれてもいないのに、勝手に代弁して、都合が悪くなると「私には説明できない」と言って投げてしまう。

自分は海原氏じゃないから限界がある、それなら最初から海原氏の代弁もしなければよかったですね。その程度の能力で、なんで「海原氏の妄言」を弁護しようなんて思ってしまったんでしょうか。

kawaguti 2009.07.04 [42]

その2

なんで「海原氏の妄言」を弁護しようなんて思ってしまったんでしょうか。

最初に私が行おうとしたのは彼の弁護ではなくて、hidewさんの解釈の誤り(と思った部分)の指摘だったのですがね。
なお、私がいつ「代弁」したのですか?

どうでもいいが「都合が悪くなると」なんて脚色は不要。
「だれそれは都合が悪くなると別の事で相手を批難する」という以上に。

hidew 2009.07.04 [43]

無責任言論

最初に私が行おうとしたのは彼の弁護ではなくて、hidewさんの解釈の誤り(と思った部分)の指摘だったのですがね。

解釈の誤りと思ったのは、海原氏の代理人としてですか、kawagutiさん本人としてですか。

「解釈の誤り」という指摘に「誤り」があった場合、どうするつもりだったんですか。

なお、私がいつ「代弁」したのですか?

じゃぁ、何をしようとしたのですか?
人のブログにコメントを書き散らして。

「 .. 」は私の意見ではなく、私が解釈した海原氏の意見。です。

これを「代弁」と言うのでは?

なのでこの意見の妥当性についてしつこく聞かれても、私の回答には限界があります。

何をするにしても「言論の責任を引き受ける」という気はなかったようです。

どうでもいいが「都合が悪くなると」なんて脚色は不要。

どうでもいいことですが、また「脚色」の意味を間違えていませんか。

kawaguti 2009.07.05 [44]

その3

代弁であるか、解釈についての意見であるかはしっかり区別してくださいよ。
広辞苑より。
代弁―本人に代わって意見などを述べる事
解釈―文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。またそれを説明すること。

あと、「脚色」にそれ程間違いは無いと思いますよ。

hidew 2009.07.05 [45]

些末な問題

代弁か、解釈か、はどっちでもいいです。

「脚色」にそれ程間違いは無いと思いますよ。

「少しは」間違えているということですね。どっちでもいいですけど。

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