#1804 「碁法の谷の庵にて」風の精ルーラ氏のマッチポンプ
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もはや、何が本題かよく分からない状態になっているが、逐次反論していく。
功利主義
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200906140000/
問題なのは、今この論争が、そういった非現実・仮定の論争を持ち出して何の役に立つのかという話である。
その功利的な発想が「分かっていない」と言われるゆえんである。「何かの役に立つ」から(囲碁、数学、哲学などを)考えるわけではない。そこに問題があるから考え、誤りがあればツッコミを入れる、というだけの話だ。
囲碁は何の役に立つか
役に立ちませんけど何か?
マッチポンプ - 神・悪魔というレトリック
神と神とで碁を打った時にどうなるという話が、「囲碁界の現実」は負けたら相手がだれであっても文句を言われてしまうということに何の関係があるのだろう?
全く関係ない。今回の問題は棋士の努力義務という現実的な問題なのである。
神や悪魔という「非現実」のレトリックを先に使っておいて、その誤りを指摘されると全く関係ない
、今回は現実的な問題
と言って逃げる。
自分が何で批判されているか、分かっているのだろうか?
この一文はお返ししたい。
複数の話題を混同
全く関係ないところに仮定の芸術論、神様囲碁論を持ち込んであーだこーだというのでは、この人は何を考えているんだろう、
現実社会について考える気のない人かということになってきてしまうのである。
風の精ルーラ氏は同時にひとつのこと(しかも現実のこと)しか考えられないのだろうか。
私は「棋士の努力義務」についても書いた。「神様の碁」と「棋士の努力義務」は別の話である。同時進行しているからといって混同してはいけない。
全く関係ないところに、あーだこーだ
と文句を言うのならば、まず本題とは関係ないことを書いてしまった自分の文章を反省すべきだろう。「棋士の努力義務」を書くつもりの文章
で、棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。
と書き出してしまったのは自分自身なのだ。
マッチポンプ - 神様囲碁論を続ける不思議
例えば李世ドルが人の姿を借りた神や悪魔であったとしても、現実には負けたら叩かれるのであるし、
神様囲碁論を持ち込んであーだこーだというのでは、この人は何を考えているんだろう
と言っておきながら、自分はその話を続けてしまう不思議。
李世ドルが人の姿を借りた神や悪魔 ..
って?
具体的に突っ込むと、また「現実の問題を考えているのに、宗教、神様囲碁論を持ち込むな。」とマッチポンプで怒られるのでやめておく。
この物語はフィクションです
例え相手は碁の神だ、勝てなくて当たり前と達観できる人がいたとしても、そんな仙人みたいな人基準で囲碁界は運営できないのが現実であろう。
「神様の碁を考えること」と「人間の碁を実際に打つこと」は全く別である。
民放のドラマで「この物語はフィクションです」という当たり前の注意書きが出るのを不思議に思っていたが、虚構と現実を混同してしまう人は実際に存在するんだということが分かった。
風の精ルーラ氏に「神様同士が打ったら…」という話をする時は、いちいち「この話はフィクションです」と断り書きを入れなければならない。そうしないと「神様の基準で囲碁界は運営できない」といわれてしまう。そんなこと当たり前なんだけど。
神様というのはフィクションです
「まるで宗教家」の意味
ハンドルそのものにケチをつけられたと思っているらしいが、全然違う。
彼は、「まるで宗教家」という言葉を「低級ギャグ・茶化す」という意図で使っていたことを自ら白状した。
というジャイアニズム(自己中心性、幼児性)も露わになった。
私の真意はそこにある。
ネーミングのことなどどうでもいい。