Amazon オススメ商品

hidew 2009.06.20

#1804 「碁法の谷の庵にて」風の精ルーラ氏のマッチポンプ

関連記事

もはや、何が本題かよく分からない状態になっているが、逐次反論していく。

  1. 功利主義
  2. マッチポンプ - 神・悪魔というレトリック
  3. 複数の話題を混同
  4. マッチポンプ - 神様囲碁論を続ける不思議
  5. この物語はフィクションです

功利主義

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200906140000/

問題なのは、今この論争が、そういった非現実・仮定の論争を持ち出して何の役に立つのかという話である。

その功利的な発想が「分かっていない」と言われるゆえんである。「何かの役に立つ」から(囲碁、数学、哲学などを)考えるわけではない。そこに問題があるから考え、誤りがあればツッコミを入れる、というだけの話だ。

囲碁は何の役に立つか

役に立ちませんけど何か?

マッチポンプ - 神・悪魔というレトリック

神と神とで碁を打った時にどうなるという話が、「囲碁界の現実」は負けたら相手がだれであっても文句を言われてしまうということに何の関係があるのだろう?
全く関係ない。今回の問題は棋士の努力義務という現実的な問題なのである。

神や悪魔という「非現実」のレトリックを先に使っておいて、その誤りを指摘されると全く関係ない今回は現実的な問題と言って逃げる。

自分が何で批判されているか、分かっているのだろうか?

この一文はお返ししたい。

複数の話題を混同

全く関係ないところに仮定の芸術論、神様囲碁論を持ち込んであーだこーだというのでは、この人は何を考えているんだろう、
現実社会について考える気のない人かということになってきてしまうのである。

jpg 8164 byte 風の精ルーラ氏は同時にひとつのこと(しかも現実のこと)しか考えられないのだろうか。

私は「棋士の努力義務」についても書いた。「神様の碁」と「棋士の努力義務」は別の話である。同時進行しているからといって混同してはいけない。

全く関係ないところに、あーだこーだと文句を言うのならば、まず本題とは関係ないことを書いてしまった自分の文章を反省すべきだろう。「棋士の努力義務」を書くつもりの文章 で、棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。と書き出してしまったのは自分自身なのだ。

マッチポンプ - 神様囲碁論を続ける不思議

例えば李世ドルが人の姿を借りた神や悪魔であったとしても、現実には負けたら叩かれるのであるし、

神様囲碁論を持ち込んであーだこーだというのでは、この人は何を考えているんだろうと言っておきながら、自分はその話を続けてしまう不思議。

李世ドルが人の姿を借りた神や悪魔 ..って? png 409 byte

具体的に突っ込むと、また「現実の問題を考えているのに、宗教、神様囲碁論を持ち込むな。」とマッチポンプで怒られるのでやめておく。

この物語はフィクションです

例え相手は碁の神だ、勝てなくて当たり前と達観できる人がいたとしても、そんな仙人みたいな人基準で囲碁界は運営できないのが現実であろう。

「神様の碁を考えること」と「人間の碁を実際に打つこと」は全く別である。

民放のドラマで「この物語はフィクションです」という当たり前の注意書きが出るのを不思議に思っていたが、虚構と現実を混同してしまう人は実際に存在するんだということが分かった。

風の精ルーラ氏に「神様同士が打ったら…」という話をする時は、いちいち「この話はフィクションです」と断り書きを入れなければならない。そうしないと「神様の基準で囲碁界は運営できない」といわれてしまう。そんなこと当たり前なんだけど。

神様というのはフィクションです

*

hidew 2009.06.20 [1]

「まるで宗教家」の意味

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200906140000/

少なくとも茶化されにゃならぬHNではないと言いたいだけである。

ハンドルそのものにケチをつけられたと思っているらしいが、全然違う。

彼は、「まるで宗教家」という言葉を「低級ギャグ・茶化す」という意図で使っていたことを自ら白状した。

  • 自分が(他人の意見に対して)「まるで宗教家」と言うのは○
  • 他人が(自分の名前に対して)「まるで宗教家」と言うのは×

というジャイアニズム(自己中心性、幼児性)も露わになった。

私の真意はそこにある。

ネーミングのことなどどうでもいい。

hidew 2009.06.21 [2]

人間が「神の棋譜」を目指す、身の程知らず

ヒカルの碁でも「碁の神様が自分の相手をさせるために人に碁をさせている」みたいな話はあった ..

「宇宙船を光速にしよう」という目標であれば、意味があることと言えるだろう。(光速宇宙船ができれば、ケンタウルス座αやシリウスと言った星系を人類が探索することも可能となりえる)

私は「究極」について空想することも、語ることもやぶさかではないが、風の精ルーラ氏は頑なに「現実」にこだわっていたはず。それなのに「神の棋譜」や「光速宇宙船」については嬉々として語ってしまう。

今この論争が、そういった非現実・仮定の論争を持ち出して何の役に立つのかという話である。

今回の問題は棋士の努力義務という現実的な問題なのである。現在の刑罰をどうあるべきか考えるときに刑罰のない理想社会の話ばかりされているようなものである。全く関係ないところに仮定の芸術論、神様囲碁論を持ち込んであーだこーだというのでは、この人は何を考えているんだろう、現実社会について考える気のない人かということになってきてしまうのである。

自分でこういうことを言うなら、まず自分で持ち出さなければいいと思うのだが、私が何かを反論すると、また「それは現実的な話じゃない」と言う。自分で言い出した話の都合が悪くなると、自分でメタ否定する、いつものやり口だ。

「神の棋譜」や「光速宇宙船」について具体的に掘り下げてもますます紛糾することがわかっている。現実的に起こりえる範囲しか思考しない彼が極限について議論できる見識をもっているとは思えないから、現実的なレベルに下げようと思う。

定年後に囲碁を始めたおやじが「李セドルに勝つことが目標だ」と言ったら、どうだろうか。そういう遠すぎる目標を立ててしまうのは「身の程知らず」と言うのである。何も分かっていないからこそ言える台詞だ。

プロ棋士が「神の棋譜を目指す」なんていうのは、下手なアマが「李セドルを目指す」よりもはるかに遠い。