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hidew 2009.06.11

#1798 誤解学(2) 仮定と現実の混同 - 「碁法の谷の庵にて」

今までの流れ


勝負としての碁が現在プロであるのに芸術論を持ち込む不思議 - 碁法の谷の庵にて
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200906070000/

この記事は プロ棋士には研鑽の義務があるか に対する反論のように書かれているが、タイトルからして、いきなり的を外している。

私は以前から プロは勝負(の結果)が全て。努力など問題ではない と言っている。

碁は神様同士が打てば書や絵画のようなもの という部分が「芸術論」という誤解につながっているのだろうが、これは極端な仮定に基づく比喩である。「神様同士が打った棋譜は円周率 3.141592 .. のようなもの」という別の言い方もできた。その場合「.. 数学を持ち込む不思議」と言われるのだろうか。

  1. 仮定と現実の混同
  2. まるで宗教家を相手にしているよう
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仮定と現実の混同

風の精ルーラ氏は「もし全知全能の打ち手がいたならば」という仮定に基づく思考(数学、哲学)が苦手なようで、仮定と現実をしばしば混同してしまう。「神様」という言葉を使っているのだから、非現実・仮定の話(極論)だと理解してほしいものだ。

そもそも「プロ棋士は、相手が神や悪魔でも勝たねばならない」と極論に振った(比喩を使った)のは、風の精ルーラ氏なのである。自分で言い出したことに、自分でケチをつけている。相変わらずのマッチポンプである。

まるで宗教家を相手にしているよう

  1. 風の精ルーラ - 棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。
  2. hidew - 神様には勝たなくてもいい。神様同士が打ったら引き分け。
  3. 風 - まるで宗教家を相手にしているようである。
  4. hw - 神、悪魔、精霊と言う方が宗教家みたいだ。
  5. 風 - 私は本文で『精霊』とは言っていない。
  6. hw - まるで宗教家のような名前の人が ※と言う。

こういう経緯をふまえて、

仮にも4年以上このHNに親しんできたのである。事ここに至って人のHNを茶化すとは低級ギャグも極まれりだろう。

私はまるで宗教家という発言をお返ししただけである。鏡を見て文句を言いたくなるのなら、自身の言動がおかしいのだ。

.. 公序良俗に反するHNではないと自負はしている。

「宗教家のような名前」と言われただけなのに、この発言はなんだろう。もしかして彼の中で宗教は「公序良俗に反すること」なのだろうか。

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つづく

*

hidew 2009.06.12 [1]

誇張のレトリック

現実問題に拘泥して、思考実験としての「全知全能」を全く考えられないのならば、最初から神や悪魔が相手でも勝たなければならないなんて言わなければよかった。

誇張のレトリックならば「相手が李セドル(道策、呉清源)でも勝たねばならない」と言えば十分である。もっと誇張したければ「誰が相手でも負けてはならない」と言えばよい。

何度も言うが「全知全能の打ち手に勝つ」ということはありえない。「神様に勝つ」というのは、「∞無限を超える」みたいな話だ。

言葉の綾とはいえ、理屈に合わないことを言ってはダメだろう。私がツッコミを入れたときに、すぐ訂正するか、受け流せばいいのに宗教家と話しているようと言って、ごまかそうとするからおかしなことになる。

hidew 2009.06.13 [2]

仮定の思考

「誰が相手でも勝つ神様」と「誰が相手でも勝つ悪魔」が対戦したら?

こういう問いに対して「神と悪魔が対戦する状況は現実にはありえない」と答えるのは、おそろしくピントがはずれている。答えは言うまでもないが 矛盾 である。

#1601 ロケットに長いロープをつけ、自由に宇宙空間を飛び続けた後、地球に戻ったとき、ロープをたぐり寄せ回収する。どんな場合でも全て回収できたとしたら、宇宙はおおむね丸いと言える。

これはポアンカレ予想の一端を分かりやすく解説しようとした文章だが、「そんなことは現実にはありえない」と突っ込む人がいるとすれば、「残念!」である。

「神様が碁を打ったら」という話は、「神様」という単語が出てくる時点で、現実ではなく仮定の話 ということは明らかなのだが、風の精ルーラ氏は

そのような人物が「現実に出る」ことを前提に考えるのはばかばかしいことである。

と言ってしまう。一体何を勘違いしているのだろうか。

hidew 2009.06.14 [3]

無知の知

.. 神と神が碁を打てば芸術品のようなもの .. 、究極的には、そういった芸術品のような碁を打つという目標が棋士には設定されていると考えている。

「プロ棋士は神の棋譜を目標に設定している」なんてことは「碁が分かっている」人なら言わない台詞だ。目標が遠すぎる、あまりに遠すぎる。新幹線は(究極的には)光速を目標に設定している と言っているようなものである。

風の精ルーラ氏は中途半端に強いから、かえって見えないことがあるのだろう。

http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2009/05/post_43.html

「囲碁の神様が 100 知っているとしたら、自分は…」との問いに、希代の名人が出した答えは 6 だった。

本当に強い人は自分の「無知」を知っている。

hidew 2009.06.15 [4]

「尊厳」の意味

私はもっと尊厳という言葉を重い意味で使っている。
尊厳とは私には「当然有すべき価値」である。その価値の一つには名誉も入っていると考えているのだ。

「尊厳」の辞書的な意味は「尊く、厳かなこと」である。当然有すべき価値ではなく、前に書いていた 尊重されるべき価値 の方が正しい。使っている本人の定義がブレてしまう言葉は使わない方がいいだろう。

.. 誰がプロ棋士に対局料や給料を払うものか。.. 慈善事業だけで億単位の金を新聞社が払ってくれると思ったらそれは甘いだろう。新聞社とて、ただで金をばらまく趣味などあるまい。

生活するため、表現するため、本人が努力するのは当たり前である。

囲碁ファンは「勝利の物語」「魅せる棋譜」を買う。

国民には「勤労の義務がある」ということはどう考えているのやら。

「本因坊戦で4勝する」のは勤労ではない?

(プロの対局は)それ自体1文も生産しないという発言といい、芸術・娯楽分野に関する理解がなさすぎである。

本因坊戦で4勝するより、霞ヶ関で1日16時間働き続ける方がはるかに簡単である。お役所仕事じゃあるまいし、プロ棋士の仕事の価値を労働時間の長さ(努力量)で計ってどうする。

つくづく、風の精ルーラ氏は「碁が分かっていない人」だと思う。

hidew 2009.06.16 [5]

「研鑽」の意味

.. 勝つために最善を尽くすと言ってもよいものだ。もしも「俺は毎日日本酒を一升飲んで碁盤に一切触れない方が勝てるんだよ」という棋士がいれば、毎日日本酒を一升飲んで碁盤に一切触れないのも、研鑚と私は考えている。

毎日日本酒を一升飲んで碁盤に一切触れないという姿勢でも「研鑽」と言えるのならば、「日常生活の全てが研鑽です」と言って最後に勝てばいい。要は「結果が全て」ということである。「研鑽」という言葉をこんな文脈で使っていいものか疑問だが、まあいい。

.. トップ棋士でさえ、勝てないという現実が存在している。

「完全無敵の全勝以外は勝ちと認めない」なんて訳の分からないことを言っているから、こういう語義矛盾に陥ってしまう。勝っているからこそトップ棋士なのだ。プロ棋士の勝敗は長期的な獲得賞金額で決まる。

勝つために最大限のことをせよ。

努力することなど、当然すぎて前提にさえなっていない。

「勝つために最大限のことをしたけど、負けました」という言い訳は勝負の世界では通用しない。努力しても結果が出ないのならば退場するのが筋である。トーナメントプロは諦めて、教本を書くとか、後進の指導にあたるとか、他の道を模索すればよい。レッスンプロはそれこそ努力が評価される世界である。

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