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hidew 2009.05.29

#1783 「囲碁お見知り置きを」海原氏、発言の責任について(2)

上の記事のコメント欄での議論があまりに長くなってしまったので分割した。継続性を明示するため、件名は変えなかったが「囲碁お見知り置きを 」の海原氏は関係なくなりつつある。

経緯

宮崎あおいの夫の件 だってそうだ。「週刊誌が不倫疑惑を報道した」からと言って「そういう事実があった」とは限らない。「情けない」とか「気をつけるべき」という言葉を投げかけるのは軽率だ。

(工事中)

*

kawaguti 2009.05.24 [1]

さて・・・

少しは責任について調べてみましたが…この件について参考になりそうな文章は見つけられませんでした。
まあ、責任については「より良い選択肢があるのに、選ばなかった」事について発生するものとし、制御不能な(選択肢の無い)ものについては問わない。と言う事を受け入れます。

さて…
問題は、本当に「騒動」が制御不能なのかどうか。
少なくとも、高岡氏があのような行為をとらなければ、報道・騒動は起こらなかった。
つまり高岡氏は報道・騒動の「発生」について制御可能であり、責任があると言えるのではないか。
(勿論、報道するかどうかは週刊誌の判断に違いないのですが、週刊誌の性質を考えると報道は必然的な結果と考える事が可能だと思います)
元々こういう考えではあったのですが、適切な表現が出来ていませんでした。改めて私の意見を表明し直します。
(より厳密に高岡氏の行為を非難するならば、その対象は、「必然でない行為によって、報道や騒動が起きて回りに迷惑がかかる可能性を作った」という事になるのでしょう。尤も普通はこんな回りくどい非難はせず、結果をそのまま理由に含めるでしょうが。)

hidew氏は「マスコミの責任」を強調しているので、おそらく「マスコミの報道は必然的な結果では無く、マスコミの自由意志に基づく行為」と考えているのでしょう。
マスコミは報道するかしないかという選択肢を持っているから、どちらの選択をしたとしても、その結果について全責任を負う。と。

私は今回の件に関しては、週刊誌は当然報道するもの(選択肢など無いに等しい)と考えていますので、それを前提に論を組み立てていました。
そもそも我々には週刊誌等のマスコミが報道しない状況を想定する事がほぼ不可能(一体どうやって情報を得るのか)ですから、その点でも報道は前提とするのが妥当だと考えています。
勿論、マスコミはマスコミでそういう性質は非難されるものであり、変革も必要でしょうが、悪法も法なりというようなもので、今の所はそうなっているのだから仕方ない(その中でやっていくしかない)。
まあこういう感覚はおそらく共有できていないので、だから「誹謗中傷」という言葉が出てくるのでしょうね。

なお、週刊誌に見られたくないところを見られてしまった「不注意」を非難する事は可能だと思いますが、こちらについてはどうお考えでしょうか。

hidew 2009.05.25 [2]

結果論の屁理屈

少なくとも、高岡氏があのような行為をとらなければ、報道・騒動は起こらなかった。

結局、同じことの繰り返しになってますね。

kawagutiさんは「男女関係のトラブル」ではないと推定して、なお、騒動になったことだけを問題にしていました。つまり「彼は悪いことをしていないけど、マスコミが騒いで周りが迷惑したから、彼の行動は非難されるべき」という理屈です。そんな結果論の屁理屈で、「頭にくる」とか「情けない」などと非難してよいものかどうか。

「風が吹けば桶屋が儲かる」式に因果関係をたどって、元の行為者に最終結果の責任を負わせるなんてことがまかり通るなら、何でもありですよ。

少なくとも、高岡氏が宮崎あおいと結婚していなければ、報道・騒動は起こらなかった。
→「宮崎あおいと結婚したこと」を非難しますか。

少なくとも、高岡氏が俳優(芸能人)になっていなければ、報道・騒動は起こらなかった。
→「俳優になったこと」を非難しますか。

kawaguti 2009.05.25 [3]

勿論、原因というものをとことんまで突き詰めて、どこまでも責任を負わせるというのは適切ではない。
だから適当なところで線引きをしなければならない。
この「適当なところ」が大いに問題ですが、これは人々の人倫感覚に任せるしかない。(裁判なら裁判官の判断すべき事でしょうが)
高岡氏が宮崎あおいと結婚した事や俳優になった事は結果から見ればあまりにも遠い出来事。
またその行為からこういった結果が発生する事は予測できるか。まず無理だろう。
それに対して高岡氏の例の行為はこういった結果が発生する事が予測できるか。まぁできるだろう。
私は彼の(適切とは言えない)行為の所で線引きをしました。ですからそれより遠い原因について問題を指摘しようとは思いません。(今現在知っている事実の中では、ですが)
彼の行為は悪では無いが、(行為それ自体は)適切とは言えない。この事は宜しいでしょうか。
適切な行為、全く無問題の行為について非難するのは難しい。しかし適切とは言えない行為については、その結果から非難する事が可能だと考えています。
なお、結果論による屁理屈と仰いますが、厳密な意味での正当な非難については82の()内で書いています。
ただ普通はわざわざそんな面倒は表現はしないし、可能性まで非難していては世の中非難の嵐ですから、結果を重要な要素とするのは致し方ない所でしょう。
それに実際、責任はほとんどの場合、結果論的に追求されてしまうものです。(例:勝ったからok→責任追及は無し/負けたからダメ→責任追及)

なお、以前に「(報道を含む)騒動が無ければ非難する理由は無い」と言っていますが、この論は不適切でした。
「騒動が無ければ非難しないほうが良いと思っている」という程度のものです。ここで訂正しておきます。
(報道が無いと、まず情報を得られないので、非難は不可能だと思ったのですが、かなりずれてますね…)

あと一応、「頭にくる」は事態に対する漠然とした不満の表出だと取る方が自然だと思います(高岡氏への非難として取る事が困難ならば尚更)。
そして「情けない」は週刊誌に書きたてられてしまった不注意に対する非難でしょう。
週刊誌に書きたてられてしまう、という事態をマイナスのものとする理由を結果に求める事も可能でしょう。
まあこんな解釈しようがしなかろうが、普通に読む分には大差ないのですけれど。

hidew 2009.05.25 [4]

一歩前進

しかし適切とは言えない行為については、その結果から非難する事が可能だと考えています。

最初に「妻以外の女性と会うことの是非」について聞いたとき、kawagutiさんは「とくに問題とは思わない」と答えています。最初は「問題ない」と言っていた行為を「適切とは言えない」と言い換えた。「騒動」だけでは非難事由にならないということをようやく理解したのでしょう。それだけでも一歩前進です。

彼の「適切とは言えない行為」は、その行為だけを非難すればよく、「騒動」を上乗せする必要は全くありません。

hidew 2009.05.25 [5]

患者を死なせた医者の責任

それに実際、責任はほとんどの場合、結果論的に追求されてしまうものです。

芸能人の男女関係をのぞき見して文句を言っているだけなら、別にいいのですが、他分野でも同じ考えを持ち込むのでしょう。「責任」について何の見識も持たないまま、非難・批判だけは一人前という人たちは、あらゆる分野で害悪をまき散らすことになります。

たとえば、医者が、ごく常識的な治療を行ったにも関わらず、患者を死なせてしまったとします。後から「特殊な救命方法」が分かったとして、その医者の責任を問うことは妥当ですか。

結果を重要な要素とするのは致し方ない所でしょう。

そのような思慮の浅い人が、軽々しく医者を非難することで、「医療崩壊」をまねきます。

hidew 2009.05.25 [6]

不満の垂れ流しに理屈を付ける

あと一応、「頭にくる」は事態に対する漠然とした不満の表出だと取る方が自然だと思います

前に書いたとおり、海原氏の文章は全体として「漠然とした不満を垂れ流しただけ」です。それを kawaguti氏が(責任という概念の基本も理解しないまま)訳の分からない理屈で、弁護しようとしたから話がおかしくなりました。

海原氏や kawaguti氏に共通する問題は、個人的な情緒の話に「奇妙な理屈」を付けて正当化しようとすることです。棋聖戦打ち上げ事件の時も「王立誠の行為は嫌い」とだけ言うなら、問題はありません。しかし、海原氏は「みんな(オレ様と2,3人)が不快に思うから、普遍的に非難されるべき行為だ」という一言を付け加える。余計な一言にツッコミどころが多すぎますね。

kawaguti 2009.05.26 [7]

最初に「妻以外の女性と会うことの是非」について聞いたとき、kawagutiさんは「とくに問題とは思わない」と答えています。最初は「問題ない」と言っていた行為を「適切とは言えない」と言い換えた。「騒動」だけでは非難事由にならないということをようやく理解したのでしょう。それだけでも一歩前進です。

「騒動」だけで非難理由になるなどとは言っていませんが(実はこれ2度目)。 ま、後で述べるとして。
これは単に、hidew氏が「特に問題ではない」を「適切だ」と読み換えてしまっているだけです。
特に問題ではないが、適切とは言えない。最初から、そういう話です。(「罪」ではないが、褒められたり、必要とされたりするような行為でも無い)
All or Nothingについて口酸っぱく説くhidew氏なら、このくらいの構造は理解できると期待します。
まあ最初の方では、「適切ではない」と言う段で「予測可能な結果」を理由に挙げていた事がおそらくネックになっていたのでしょう。
こちらについても、構造としてこれを正当化する簡単な例を挙げると、「それは悪手」‐理由、「たぶん損するから」。

患者を死なせた医者の責任。の喩えはhidew氏らしいですね。
医者の行為(常識的な治療)は医者にとって当然の事で、仕事の一部。
特殊な救命方法は(知っている或いは知っているべきなら別だが)予測可能とは言い難いので、彼に責任を問うのは難しい。
尤も医者が、その治療法では患者は死ぬとわかっていて(わかるべき状況で)、その行為を行っていたのであれば、非難されうるだろう。
どんな場合でも、医者が「患者の死」に幾分か責任を感じる可能性はあるが…

結果だけが非難の要素、ではないのは明白。
私は結果だけで判断しているのではないと何度も言っています。
その結果の原因となった行為が、状況から(常識的に)考えて当然(すべき事)とはいえないような時に、結果についての責任を問い得る。
それにしても、hidew氏は自分が62で熱く語った事をすっかり忘れてしまったようですね。

なお辞書を引けば、責任は行為とその結果について発生すると明記されています。
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。‐大辞泉
2 自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。 ‐大辞林
今回の場合、主な目的として「義務」や「償い」を要求するものではないし、その他にも少し違和感がありますが。

kawaguti 2009.05.26 [8]

>87

「誰もが非難すべき」と私は一言も言っていないのですよ。
海原氏の言論は今から見に行くのは面倒なのでまたの機会にしますが。

hidew氏が「そんな非難はありえない」と言うのですから、それに対する私の反論は「そこまでは言えない」というものです。
海原氏の例の記事に問題が無いなどとは一言も言っていないし、ましてや「正当性を認めよ」とも言っていない。
「構造的にある程度の妥当性を保持する言論については、「ありえない」と言う事は無理であり、例の非難は構造的にある程度の妥当性を保持している」と言っているのです。

そもそも最初に「考え方の違い」を否定したのはhidew氏です。その上「そのような非難は(絶対に)誹謗中傷だ」とか。
今更私に対して「普遍的だなどと主張するな」とは無茶苦茶です。そっくりそのまま返したい気分です。
また、事ここに到っても未だ執拗に海原氏を非難し続けるのもやり過ぎかと思います。
私を非難するのにわざわざ(今この場にいない)海原氏を持ち出す必要は無い。

kawaguti 2009.05.26 [9]

更に…

そもそもこの件に関する私の意見は「週刊誌はくだらない報道をした」だと以前に述べています。
一体どうやって「誰もが高岡氏を非難すべき」と言っていると解釈するのでしょう。理解に苦しみます。

hidew 2009.06.01 [10]

官僚的ごまかし作文(内容がないよう)

特に問題ではないが、適切とは言えない。最初から、そういう話です。
(「罪」ではないが、褒められたり、必要とされたりするような行為でも無い)

否定形ばかりで意味のある言明がひとつも含まれていないのですが … 何を言いたいのですか?
「正しくもないが、間違いでもない、あーでもない、こーでもない」と言って何か言った気になるのは典型的な官僚作文でしょう。

海原氏の例の記事に問題が無いなどとは一言も言っていないし、ましてや「正当性を認めよ」とも言っていない。

これも「あーでもない、こーでもない」という官僚作文です。
…言ってない、…言ってない、で結局「何も言ってない」ということですね。
「何を言いたいか」だけ書いてもらえますか。

結果だけが非難の要素、ではないのは明白。

また出ました。All or Nothing. 「100%ではない」という常に正しく何の意味もない官僚作文。

結果だけが非難の要素ではないほとんどの場合、結果論的に追求されるとは言ってます。

私は結果だけで判断しているのではないと何度も言っています。

「結果だけで判断」とは言っていないが「ほとんど結果で判断」とは言っています。

なお辞書を引けば、責任は行為とその結果について発生すると明記されています。

結局のところ、「責任」については辞書を引いて調べただけなんですか。

「誰もが非難すべき」と私は一言も言っていないのですよ。

[6] 海原氏は「.. 普遍的に非難されるべき行為だ」という一言を付け加える。

海原氏はと書いてますけど…。
ちなみにこれは棋聖戦の時、王立誠が石を打ち上げた行為を指しています。ref.#1730

海原氏の言論は今から見に行くのは面倒なのでまたの機会にしますが。

わざわざ見に行かなくてもいいですよ。
kawaguti氏と海原氏は同じ思考ですから。

一体どうやって「誰もが高岡氏を非難すべき」と言っていると解釈するのでしょう。理解に苦しみます。

もしかして酔ってますか?
こっちが理解に苦しみます。
何を誤解したのかさえも不明です。

hidew 2009.05.27 [11]

構造的にある程度の妥当性を保持する言論???

「構造的にある程度の妥当性を保持する言論については、「ありえない」と言う事は無理であり、例の非難は構造的にある程度の妥当性を保持している」と言っているのです。

何を言いたいのかよく分かりません。

構造的にある程度の妥当性を保持する言論とは、もしかして、海原氏が「宮崎あおいファンとしての不満を垂れ流した記事」のことですか。「マジ頭にくる、情けない、気をつけろ」と情緒的に書き殴った文章のことですか。それとも、kawaguti氏が書く「あーでもない、こーでもない」と何かを言ったようで何も言っていない空虚な文章のことですか。

そもそも構造的という言葉が意味不明ですが、「論理的」という意味ですか。

またしても、論理と倫理を混同していませんか。

kawaguti 2009.05.27 [12]

高岡氏の行為は「罪」ではないが、必然性や必要の無い、結果から見て問題にしうる行為。
ボーっとしている行為は罪ではないが、必然性や必要は(普通に考えれば)無い。
しかしその間に調理中の料理を焦がしてしまったら、「ボーっとしていてはいけなかった」と非難できる。
仮に宅配便の応対をしていて焦がしてしまった場合には、応対は必要な行為といえるので、非難するのは難しい(それでも非難する人はいるが…)。
こういった違いが生まれるのですから、「必然性(必要)が無い」と評価する事には意味があります。
hidew氏が「意味が無い」と思った理由を是非とも知りたいものです。

構造的に…とは要は「まあ筋が通っている」と言う事です。論理的に、というのも近いですが、倫理を排除してもいません(「線引き」等)。
またこれは「(不倫行為は無かったとした場合の)高岡氏への非難」についてです。
愚痴に対して「誹謗中傷」呼ばわりは考えられなかったので、「非難」を考察の対象としています。
(要するに私があーだこーだ言っていることです。)

結果だけで判断していたと言って私を非難したのはhidew氏です。
私の文はそれに対する反論でした。(少し大げさでしたが)
また結果が重要な要素とは言っていますが、行為だって重要な要素なのは当然です(そもそも非難対象は行為なのだから)。
だから「患者を死なせた医者」の例では私の主張に対する反論にはならないよと。

普遍的云々。私に対する非難でないのなら一体どうしてここで書いたのか不思議な所です。既に別所で書いていると言うのに。
更に今回の場合には、例の記事に「普遍的に」と言っていると取れるような言葉は無く、関連性も低い。
私の誤読は認めますが。

何を言いたいのか

誹謗中傷では無い(ありうる非難だ)と言っています。(例の文の上下に書いているのに、何故見落とすのか全く理解できませんが)
不満の垂れ流しである部分については、不満の垂れ流しである(再帰的だなぁ)と言っています。
やはり「誹謗中傷では無い」ということです。

hidew 2009.05.28 [13]

クラゲのような言論

構造的に…とは要は「まあ筋が通っている」と言う事です。
論理的に、というのも近いですが、倫理を排除してもいません

また「排除しないが、含めてもいない」と言い逃れをするための準備工作ですか。含めるなら「含める」、排除するなら「排除する」とはっきり言ってください。微妙なら「微妙に含む」と肯定形で言ってください。否定形のみでは何かを言ったことにはなりません。

なお、正しい日本語では「構造的」という言葉に「倫理」の意味は含まれません。

また結果が重要な要素とは言っていますが、行為だって重要な要素なのは当然です(そもそも非難対象は行為なのだから)。

「あれも重要、これも重要」と言っておけば、後から言い逃れをできると思っているのでしょう。これもよくある官僚作文です。競馬で言うと「あの馬も来る。この馬も来る。…」と予想して、全点買いするような愚かさ。

結果だけで判断していたと言って私を非難したのはhidew氏です。
私の文はそれに対する反論でした。(少し大げさでしたが)

「真っ黒ではない、黒なのだ」「バカではない、アホなのだ」式の反論に何か意味があるのでしょうか。

kawaguti氏は、その場その場で反射的に言い逃れを書いているだけ。クラゲのような言論ですね。

不満の垂れ流しである部分については、不満の垂れ流しである(再帰的だなぁ)と言っています。

どうでもいいツッコミですけど、「再帰的」の意味を間違っていますよ。

hidew 2009.05.28 [14]

ボーっとする行為の必然性・必要??

高岡氏の行為は「罪」ではないが、必然性や必要の無い、結果から見て問題にしうる行為。
ボーっとしている行為は罪ではないが、必然性や必要は(普通に考えれば)無い。

「ボーっとする行為の必然性・必要」とは具体的にどういうことですか。「有る・無い」を考える以前にそういう状況を想像できないのですが。

hidew氏が「意味が無い」と思った理由を是非とも知りたいものです。

私が何の「意味が無い」と思ったのですか?

一応、文章をつなげてみましたが、

「ボーっとする行為の必然性(必要)が無い」と評価する事には意味が無い。

相変わらず意味不明の文章です。私はこんな訳の分からないことを一度も思っていません。

しかしその間に調理中の料理を焦がしてしまったら、「ボーっとしていてはいけなかった」と非難できる。

「調理中に自分でつけた火を消す」とは全然レベルの違う話です。プライベートな時間に「写真週刊誌に盗撮されないよう気をつける」なんて注意義務はありません。盗撮の被害者に対して「ボーっとしていてはいけなかった」と非難するんですか。

たとえば、過失割合が 1:9 の事故に対して、1の方を非難するのは奇妙です。盗撮カメラマンの存在に気付くことはできたかもしれないので、回避可能性(過失)はゼロではない。しかし、そのことで「頭にくる、情けない」とまで言いますか。

そもそも、夫婦間、男女間の問題に第三者が口を挟むことからして筋違いです。たとえば、自転車を盗まれた人に対して、第三者が「施錠が甘いからだ。情けない。マジ頭にくる」となじったら、「なんであなたが怒っているの?」となるでしょう。

kawaguti 2009.05.28 [15]

たしかに

たしかに倫理を微妙に含む。と言うべきでした。
また構造的にという言葉は不適切でした。
そして「再帰的」を少し調べてみましたが、なるほど間違っていました、ご指摘ありがとうございます。

「クラゲのような」という比喩は面白いですね。ふわふわ、浮き物。
しかし相手の言っている(と思った)事に対して「いやそうではないよ」と言うのを、「意味が無い」と言われても困ってしまいます。
なお「結果で判断」をhidew氏はしつこく糾弾していましたが、私の示した論拠・反論については、反論がありません。
なので、この主張は認められたと考えていいのですかね。(86で言ってるケド、一応確認)

責任論になってからは私の無知と説明不足もあってかなり煩雑な事態になってしまいました。
未だに少し疑問なのは、結果を彼への非難理由に含める事は、結果について彼にも責任がある、とする事と同一なのか。ということ。
責任が無ければ非難理由に含められない。という考えが暗に示されていたので、それに乗っかっていましたが、
「行為を問題とする理由」が「起こるべき(起こった)結果」なので、責任とは少し違うような…確信はありませんが。
「騒動が起こるんだから、それはしないほうがいい」という理屈は、この時点では責任と関係無さそうですからね…
また「俺はお前の家庭教師じゃない」と言われそうだ。

hidew 2009.05.29 [16]

非難の妥当性を考える際の定石

「結果で判断」をhidew氏はしつこく糾弾していましたが、私の示した論拠・反論については、反論がありません。

「結果論で判断してはいけない」と書いたはずです。私の示した論拠・反論とは何の話ですか。こういう独りよがりの書き方ではなく、もっと分かりやすく書いてください。

「反論がなければ是認とみなす」とは、ずいぶん勝手な理屈ですね。何を言いたいのか理解できなければ、反論のしようがないでしょう。また、全ての妄言にツッコミを入れていたら膨大な文章になってしまうので、意図的に削っている部分もあります。

結果を彼への非難理由に含める事は、結果について彼にも責任がある、とする事と同一なのか。

「責任」という概念は「非難の妥当性を考える際の定石」と考えればいいでしょう。定石ハズレを考えるのは入門者と名人だけです。

kawaguti 2009.05.29 [17]

移転作業、お手数かけます。

結局hidew氏は「結果で判断してはいけないのは絶対的な倫理だ」と主張しているのですか?
私は「結果で判断しても良い、何故ならば世の中の多くの非難はそうであり、責任の定義にも結果が含まれているから、」と主張しました。
また「悪手」の例えもこれと関連するものです。

[14] は私が[15] を書いたときと被っていたようで、見落としていましたが…

プライベートな時間に「写真週刊誌に盗撮されないよう気をつける」なんて注意義務はありません。

私は高岡氏が有名人として、また宮崎あおいの夫として、こういう事態にならない事を期待されていたと考えていますので、
「義務はあった」と思いますよ。ここまでの要求は少し過剰でしょうが。
少なくとも芸能人として「ファンの期待を裏切らないようにする」事を要求されるのは仕方ない事だと思います。
hidew氏的には「倒錯したファン意識」なんでしょうが。

たとえば、過失割合が 1:9 の事故に対して、1の方を非難するのは奇妙です。盗撮カメラマンの存在に気付くことはできたかもしれないので、回避可能性(過失)はゼロではない。しかし、そのことで「頭にくる、情けない」とまで言いますか。

私は「週刊誌が悪者」とか考えているわけではないので、割合は随分違いますが、
「頭にくる、情けない」という表現を問題にするのならそれは「言いすぎ」というようなもので、「非難そのものがあってはならない」というものではないでしょう。
単に「言いすぎ、不適切だ」というのなら私に反論する意図はありません。
また「非難すべきは週刊誌のほうで、高岡氏ではなく、そういった非難はよくない」というものであったら、やはり反論する意図はありません。(まあ理由がちゃんとしている事が前提ですが)
私は「あってはならない」とか「誹謗中傷」とかいう表現を問題視しているので。

hidew 2009.05.30 [18]

みんなは正しい

結局hidew氏は「結果で判断してはいけないのは絶対的な倫理だ」と主張しているのですか?

違います。

私は何回も「結果」と言っています。つまり「結果を見てからなら、どうとでも言える状況を利用して、現実には困難な責任を追及するな」ということです。たとえば、「秋葉原通り魔事件は家庭での教育が悪い。親の責任だ」というような言い方です。

高岡某は「盗撮カメラマンの存在に気付くことができたはず」と言うのは、結果を見たから言える話です。

.. 「義務はあった」と思いますよ。ここまでの要求は少し過剰でしょうが。

過剰でしょう。分かっているじゃないですか。

なお、私が「倫理」と言っているのは、「非・罪・責任のない人を非難してはならない」という当たり前のことです。このことは「絶対的な倫理」(数学でいう公理)として何の説明もなしに前提とします。

「結果で判断しても良い、何故ならば世の中の多くの非難はそうであり、責任の定義にも結果が含まれているから、」と主張しました。

これはkawaguti氏と海原氏に共通する誤った思考です。

  • 世の中の多くが言っていることは正しい。
  • 世の中の多くが騒いでいるから、悪いことに違いない。

「みんなは正しい」という思考停止。

そういえば、鳩ポッポ邦夫大臣は愚かにも「騒動が大きい→罪も大きい」と勘違いして、草なぎ剛を「最低の人間」と言ってしまいました。この人も自分の頭で考えることができないんでしょうね。

kawaguti 2009.05.30 [19]

「少し過剰」というのは「義務である」と言ってしまう事についてです。紛らわしくてすみません。
ファンの期待に応えられなかった時に批難されてしまうのは有名人として仕方が無い。
まあ平穏無事な夫婦生活は普通(ファンのみならず)誰もが望ましいと思うものだが。

秋葉原通り魔事件についてはあまり詳しく無いのですが(当時のニュース等を多少覚えているのみですが)、私の知る範囲では親の教育と犯人の行為との間に明確な因果関係は見当たらないし、予測可能とも言えない。我々が「親の責任だ」と批難するのは難しい。
これ以上似たような喩えを出されても面倒なので、「行為と結果の両方で判断」と明記しましょうか。
批難対象が行為なのにそれ自体について考察しない、なんて事は考えられませんが。

「結果で判断してはいけないのは、後からなら何でも言えるからだ」
一面の真理でしょうが、行為についての評価もするわけですから、言える事は限られています。
hidew氏は高岡氏がどのような状況下で、どのような行為を行ったか知っていて、「後から見たから言える話」と仰っているのでしょうか。少し気になります。
まあこの判断については私にも未だ確信の持てない部分がありますが。

定義と全く外れていたり、論理が崩壊していれば別ですが、倫理的な正しさは主に社会構成員の思考・感性に依拠します。
なので、「世の中の多く」が行っている事は、理由無しに(またはそれが倫理だからという理由で)「あってはならない」とは言えない。
中でも責任の線引きは「人倫感覚」が鍵。←要はこれなんですが・・・
女性側への批難・処分等の中には異常なものもありますが、今回の場合、「騒ぎ」は行為に対してまあ妥当なもの(多くの人は不倫行為があったと思ったし、そう思ったとしても仕方のない状況)。
「騒ぐほどに悪くなる」については既に一度否定しています。

「世の中の多く」が騒いでいるから、悪いことに違いない。

そのような理解には飛躍があるように思う。と言っておきます。

hidew 2009.05.30 [20]

公理(大前提)のすれ違い

hidew

私が「倫理」と言っているのは、「非・罪・責任のない人を非難してはならない」という当たり前のことです。
このことは「絶対的な倫理」(数学でいう公理)として何の説明もなしに前提とします。

と書いたにも関わらず、

kawaguti

理由無しに(またはそれが倫理だからという理由で)「あってはならない」とは言えない。

と言うのは、要するに「罪のない人を非難することがあってはならない」という公理(大前提)さえも認めないのですね。

それなら議論の余地はありません。

kawaguti 2009.05.31 [21]

定義が違う可能性はあるけれど

「非・罪・責任のない人を批難してはならない」に文句はありません。
問題は、結果論的な責任の追及が、どのようにその倫理を侵しているのかということ。
hidew氏はこれを明らかにしていない。
喩えとして出されているのは「結果だけ」で判断している事例。

こっちの主張の誤解かもしれないので、補足しておきますが、
「世の中の多く」が行っている事について、他の「倫理」との統合性が取れていないのなら、それを根拠に「ありえない」と言う事も可能でしょう。
論理が崩壊。の類ではありますが。

hidew 2009.12.13 [22]

常識的な前提、結論

http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20091213/p1

基本的にあらゆる主張は、前提があって、仮説みたいなものがあって、それでもって結論を導く。なもんで、前提が同じでないと、同じ結論にならない。前提が違えば結論が異なる。

で、そこに「さすがにこの前提は共有されてるでしょ」みたいなもの=常識ってものがあるわけだけど、その常識だって共有されているとは限らない。「共有されているはず」という前提がさらに存在しているだけ。議論の落とし所なんかもそうで、「このあたりだろう」という話が、どれだけ共有されているかってところになるんだよなあ。

もちろん「常識」にもレベルがあって、「さすがにこの程度はお願いしますよ」と言いたくなることもあるんだけど、それとて「お願いしますよ」という当人の思いがあるというだけのことで。「この程度はいける!」というレベル認識の押し付けになってたりもする。もちろん当人に悪意はないし、そのつもりもないし、「そういうもんだろ」というだけのことで、「当然そう読むべき」場面も多くあるんだが、「いやいや、そうとも限らんよ」という考え方もまたひとつの価値観なのでね。まあ難しい。

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