#1771 碁の本質 - 神と神が碁を打てば、
作家の江崎誠致氏が「弱くても、碁は分かる」と言っていた。「分かる」というのは「本質を見抜き、興趣を感じる」というような意味で使われており、「弱い人」が必ずしも「分からない人」ではないと言うのである。最近、将棋・羽生善治をテーマとした本 を出して話題になっている梅田望夫氏は「弱い(そもそも指さない?)けど、将棋が分かる人」である。
風の精ルーラ氏は「強いけど、分からない人」なのではないかと思う。
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棋士は碁に勝たなければならない。誰が相手でも、神や悪魔が相手でもである。
相手が神なら、勝たなくてもよい。
悪魔
をどのような意味で使っているのか不明だが、神
は「全知全能」「完全知」という意味であろう。神を相手に勝つことは不可能である(負けないことは可能)。神と神が碁を打てば、「引き分け」になる。
碁というゲームは勝敗のつくゲームであるということ。少なくとも現在のプロ碁界では、常に半目単位までコミが設定される。両者最善に打った結果として、引き分けですなどというのがありえない。.. 常に善し悪しをつけることが求められていると言ってもよい。
「勝敗がつく」のではなく「勝敗をつけている」のだ。
常に善し悪しをつけること
を求めているのも人間ルールなのであって、碁の本質ではない。
神様同士が碁を打つ時に「半目のコミ」を設定していたら、必ずどちらか(たとえば白)が勝つことになる。必ず白が勝つことになっている勝負というのはルールがおかしいだろう。コミは本質的には「和局」になるように設定しなければならない。そして碁は本質的には「勝負」ではない。神様同士の碁は「書」や「絵画」のようなものである。
人間の無知、愚かさを前提にするから、碁は勝負になる。
コミの正当性を担保するためには人間同士の対局であっても「整数コミ」「コミ自由設定選択制」をとるべきだろう。トーナメント一発勝負に限り「持碁白勝ち」のような便宜ルールを加えればよい。
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余談
風の精ルーラ氏の記事はこっちが本題。
負けた棋士になぜ無条件で対局料という金がはらわれるか、棋士であるが故の身分保障があるかと言えば、
勝てない棋士の生活を保障すること(セーフティネット)には意味がある。ただし、それは社会・政治学の話。「勝負師としての尊厳」と「人間としての尊厳」は別の話だ。
結果が出せなければそれで全てが駄目で、棋士が棋士たる所以はなくなるのか。
負けは負けとして非難するが、その大前提たる研鑚が、負けてもなお彼の棋士としての価値を一定程度支えている。
「負け続けるけど、努力はしている」という人は、アマにもいる。努力だけならアマでもできる。そこに「勝負師としての尊厳」を認めてくれと言われても、話が違う。もちろんプロだから、どんなに弱くてもアマよりは強い。その強さをもって多少の尊厳は認められるだろう。
Re: ※追記※ - 碁法の谷の庵にて
自分で先に「神様的ゲーム論」のネタを振っておいて、そこに文句を言うのはおかしい。
宗教家が嫌ならば「神」とか「悪魔」とか「精霊」とか、そういう言葉も使わない方がいいだろう。そもそも「碁は双方が最善を尽くせば引き分け」というのは簡単な論理の話で、宗教要素は全くなし。神様云々は話を面白くするために登場するだけ。
「プロ棋士は研鑽義務を負う」というなら、なおさら、そこ(研鑽そのもの)に尊厳を認めるのはおかしいではないか。税金の例で言えば「納税する国民は偉い」と言っているようなものだろう。
「李セドルですら十分ではない」と言う人の「勝つ義務」というのは一体何を意味するのか、それも疑問だ。