#1755 第26期・棋聖戦(王立誠-柳時薫)- 事件の遠因と伏線
資料発掘 のつづき。
- 棋聖決定七番勝負
- 第26期・第5局
- 白 棋聖 王立誠
- 黒 七段 柳時薫(2勝2敗)
- コミ5目半
- 観戦記:佐野真
- 2002-02-20,21
- 北海道洞爺湖温泉「洞爺湖万世閣」
- (P114) 第1譜 事件発生
- (P124) 第6譜 遠因
- (P132) 第10譜 伏線
- (P134) 第11譜 不測の事態
- (p136) 残りに全力を
- (p1) 長く感じたシリーズ - 棋聖 王立誠
- (p190) 振り返って
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(P114) 第1譜 事件発生
「あっ、いいんですか。僕は何も言ってない!」
すでに"ダメ詰め"の段階。突然、王が声を発した。
柳「えっ…」
王「僕は "終わった" とは言ってない」
柳「……」
あとは黒の三目半勝ちを確認するだけだった対局室の空気が一瞬にして険悪なものに変わる。険しい表情の王と、戸惑いを隠せずに言葉を失った柳。
王「立ち会いの先生を呼んでください」
(P124) 第6譜 遠因
打ち掛けの夜、王は一人自室で過ごしたが、柳は記録係の若手や解説のマイケル・レドモンド九段らとビリヤードを楽しんだ。
その様子からは厳しい勝負を戦っている者特有のピリピリムードはみじんも感じられず、実にリラックスしているように見えた。
しかし、事実はまったく逆だったのである。局後に柳が語ったところによると、
「自分らしくない、縮こまった碁になってしまったことが頭から離れず、この夜は一睡もできなかった。当然、形勢も悪いと思っていた」
のだと言う。
(P132) 第10譜 伏線
「事件」の時が刻々と迫っている。
ここで第6譜でふれた「遠因」を思い出してほしい。柳が前夜、一睡もできなかったことを。
棋士が一局の碁で使い果たす体力は、一般人の想像をはるかに超える。本局のような二日制であった場合はなおさらだ。
このあたり柳の体力はすでに限界に達していた。
黒285 を打った瞬間、柳は「白284で自分の石がアタリになっているのでは!」という錯覚に襲われた。そして無意識のうちに、打ったばかりの石をつまみあげてしまったのである。
すぐに気がついて石を元に戻したが、王が複雑な気持ちに襲われたのは間違いない。次の白 286 を打つのに一分を要したが、実はその時「まぁ、いいか……」と声になるかならぬかの小さなつぶやきをもらしていた。「遠因」が「伏線」へと姿をかえた瞬間だった。
(P134) 第11譜 不測の事態
柳は半コウをついだ。もう盤上には、一目の手も残されていない。
しかし囲碁規約では「終局」の定義を「両者の合意をもって」と定めている。
この時の柳は、かすかなアクションを起こしただけで、言葉にして「終局」の同意を求めてはいない。従って当然、王は「合意」をしてはいなかった。
以下の模様は第1譜でお伝えした通りである。
立会人、主催者、記録係らの関係者は全て競技のために別室へ移動。対局室に残されたのは、険しい表情で盤上を見つける両対局者と筆者の3人のみという異様な光景…。
時折聞こえるのは、両者の重くて深いため息と、せき払いの音だけ。すべての感覚が麻痺し、呼吸をするのもはばかられるような重苦しい空気が流れることなくよどんでいた。
30分ほどして連絡が入った。「さらに協議は続きそうなので、いったん自室に戻って待機してほしい」とのこと。両者とも無言で対局室を後にする。
さらにその30分後に、両者は対局室に呼び戻された。主催者、記者、カメラマン、テレビスタッフら、すべての関係者が見守る中、石田芳夫立会人が協議の結果を発表した。
「ビデオ等で確認した結果、終局の合意はなされていないものと認めます」
王が黒六子を抜き、柳が頭を下げた。
(p136) 残りに全力を
石田芳夫立会人の裁定に異論を差し挟む余地はない。規約で「終局」の定義が「合意」とされている以上、合意の無かった今回は、この結論以外になかった。
問題は、今までこの規約が徹底されていなかった点にこそある。
「僕だって抜きたいと思ったことはある」
事件後、こう語ってくれた棋士は、かなりの数に上る。今回のような事件は決して珍しくはないのだ。ただ「合意してない」とはなかなか言えないし、相手が先輩であったりした場合はなおさらだ。「伏線」が無ければ、おそらく王も黙認したのではないかと思う。
一方、つらすぎる敗戦となった柳だが、局後すぐに気持ちを入れ替えている。
「プロとして恥ずかしい棋譜を後世に残してしまった。でも第七局じゃなくてよかった。要は体力負け。集中力を切らした自分が悪い。味の悪い手付きもしちゃったし…。残り二局に全力を尽くすだけ」
(p1) 長く感じたシリーズ - 棋聖 王立誠
第五局のことは観戦記の通りです。もしあの時言わなかったらたぶん一生後悔したでしょう。私はふだんの対局でも、終了宣言はしないで最後まで駄目を詰めるよう心がけています。
(p190) 振り返って
運命の第五局は不幸な出来事としか言いようがない。極限の状態で「終わった」と思った柳七段にふっと生じた心の空白、そしてそのことを言い出すべきかどうかと迷った王棋聖の葛藤。読者からもたくさんの意見をいただいたが、あの教訓がこれから生かされればいいと思う。
第6局、柳七段は重圧に耐えることができなかった。すでに流れは王棋聖に傾いていたというべきだろう。