#1737 人を呪わば穴二つ - 批判するなら、批判される
異様に高い発言ハードル 囲碁お見知り置きを
http://igo-omishiriokio.at.webry.info/200903/article_7.html
この記事の本筋(ファンは気楽に発言を…)には賛成である。しかし、重箱の隅をつつくネタがいろいろあるので「反論のようなもの」を書いてみたい。
話の整理
話の発端は「海原氏が『誤りが含まれていたとしても私の責任ではない』と開き直ったこと 」にある。その発言は事実上、撤回された ようだが、最初から文責を明らかにしていれば(というより、余計な一言を付け加えなければ)おそらくは問題にならなかったであろう。
話がややこしいのは、最初は私と同じく「発言の責任」を問題にしていたと思われる風の精霊氏が、批判の具体的内容(日本の棋士は勉強が足りない、国際戦で手抜きをしている云々)にも反論していることだ。これが余計だった。
一言多い脱線体質同士で、筋違いの応酬になり、当初の問題はどこかに飛んでしまった。「プロを批判する場合の書き手の責任」という話から、いつのまにか「批判の内容が正しいか」「プロに対して批判をすべきではないのか」という論点にすり替わっている。
【追記】最新の記事では一応、軌道修正されているようだ。
こんなハードルを高いというのは、囲碁言論の幼稚さの自白も同然。 - 碁法の谷の庵にて - 楽天ブログ(Blog)
私の批判の主眼は、違っていても自分のせいじゃないもんね、という言説にあります。
「さっさと共同研究しろ」の記事は、私から見て不愉快であったことは事実ですが、おそらく責任ないもんねという記載がなければ、私もこんなに取り組むことはなかったでしょう。
脱線話を回収しつつ、まとめ
- プロに対して批判をすべきではないの? → 批判はご自由に。
- 批判の内容が正しいか否か? → 誤っていたら批判され、恥をかく → 批判の批判についても同様。
ざっくりまとめると、
批判するなら、批判される(という覚悟を持つ)
こんなことは当たり前なのだが、海原氏に言わせると異様にハードルが高い
らしい。
「自分は他者を批判する自由があるけど、自分が批判されるのは嫌だ」
こういうのをお子様メンタリティ
と言うのではなかろうか。
http://igo-omishiriokio.at.webry.info/200903/article_7.html
私個人は、かなり詳細にメディアなどを読み、責任をとる覚悟で発言をしています。しかし、それを一般に求めようという動きには、断固反対します。
以前は「自分は一介の囲碁ファン(ブロガー)だから、」と自己を矮小化していたのに、急に何かジャーナリスト気取りの発言になっている。「一般」の中に海原氏自身は入るのか入らないのか。自分の都合に合わせて立場を使い分けるような詭弁が説得力を持つはずがない。
重箱の隅1 無いことの証明
.. 私は十分に根拠を示しています。囲碁メディアで報道されていない、という事実を。そもそも、「無い」ことの証明は難しいわけで、とりあえず私が見た中ではそういう情報が無い以上、「無い」と判断するのは合理的です。
「無い」ことの証明は難しい
というのはその通りだが、だからこそ「自分が見たことがない→無い」とするのは飛躍がある。「自分が見たことがない→分からない」と判断すべきである。
重箱の隅2 マッチポンプ
.. そんな動きをする人たちに限って、自分自身がロクロク調べてないことが多い。.. 結局、叩きやすそうなところを叩いているだけ。そういう囲碁ファンに、私は嫌というほど会ってきました。囲碁界の抱える根源的な病理と言えます。そこをぶち壊さない限り、囲碁は滅びると思っています。
「余計」なことを言い過ぎ。
- 自分自身がロクロク調べてないことが多い。
- 叩きやすそうなところを叩いているだけ。
「ろくに調べず叩きやすいところを叩く」という習性は、囲碁界固有? 根源的病理?
むしろ逆で、「ろくに調べず叩きやすいところを叩く」(野次を飛ばす、茶々を入れる、お気楽評論)ということに対して、あまりにも自制的・抑制的であるという点が日本の囲碁ファンの特徴(問題?)で、「もう少しお気楽に発言すれば」というのが海原氏の問題提起だったはず。それなのにまた、自己否定、自己矛盾するようなことを付け加えてしまう。発言がいちいちマッチポンプなのは法科系の特徴なのかもしれない(サンプル2人)
そこをぶち壊さない限り、囲碁は滅びると思っています。
なんだろう、この唐突で意味不明な大予言は。
「自分の思い通りにならない囲碁なんて滅んでしまえ」ということなのだろうか。
重箱の隅3 語気を強めて空回り
海原氏が使った語句の一部。
- 「確信している」
- 「断固反対」
- 「異様に」
- 「普遍的に」
- 「根源的な病理」
- 「囲碁は滅ぶ」
- 「駆逐しなければ」
筋を通すこともしないで、ただ語気を強めても空回りするだけ。
批判の批判もまた批判
他人を批判したなら批判されても仕方ないという主張はもっともだと思いますが、それならば当然批判を批判した側も反論を受けても仕方ないでしょう。
正直な所、ルーラさんの発言はブログとコメントでややずれがある上具体性に欠け、今ひとつはっきりしないところがあるんですが、件の手抜き批判については、あの程度の根拠では準備不足であることの立証としては充分ではなく、それをもってプロを批判することは倫理をかいた不当なものであるという主張はしていると思います。
それにたいして、そもそもファンのプロに対する野次に要求されている立証レベルは現実に高いものではなく、また高い立証レベルを要求するべきでもない、従ってあの批判は不当なものではない、という主張はそれが妥当かどうかという問題は別にして批判に対する反論として充分機能していると言えるでしょう。
また、一般に求められるべきと考える基準と、自己に課す基準が異なることは別に不思議なことではないでしょう。
毎日早起きをしている人が、全員に早起きを強制するのは間違っている、と主張したとしても詭弁でも何でもありません。
あと、「囲碁界が滅びる」発言については、風の精霊さんの、「囲碁界を破壊する」発言を受けてのことじゃないでしょうか。
この程度の言葉の応酬に突っ込むのはそれこそ無粋かもしれませんが、批判する側に高い立証責任がある、と主張する風の精霊さんが自分の批判についてはろくに立証していないのはちょっと気になるところです。