#1730 「囲碁お見知り置きを」海原氏の支離滅裂
「囲碁お見知り置きを」の海原氏は7年前の第26期棋聖戦第5局(王立誠VS柳時薫)のダメ詰め騒動を今頃になって蒸し返し、王立誠プロに対して筋違いの批判をしている。
http://igo-omishiriokio.at.webry.info/200902/article_25.html
.. 「結論にいたった筋道」にきちんと反論がこないんです。要するに、論点がズレてるというわけでして、なんとか分かってもらおうと詳しく説明しなおしても、それについてお礼の一言の無く、またつまみぐい的な反論が繰り返される。礼儀もリテラシーも欠如してます。
唐突に「王立誠の行為(アタリになった石を打ち上げた)はみっともない」という感情論をぶちあげ、終始「ルール上問題はなくても、道義的には問題がある」の一点張り、批判の根幹に関わる部分(終局要請の応答義務)のツッコミには、基準も示さず「場合による」と片付けていた。自分に都合の悪い論点はズレていることにして逃げる。挙げ句の果てに、自身が新たに提示した論点(この点も支離滅裂→後述)に同調するのは後出しジャンケンということにする。
ブログ上の議論というのは同時に発言するわけではないから、常にどちらかが後出しになるわけで、それをジャンケンに喩えるとはお粗末な比喩である。そもそも、海原氏は「比喩は好きではない」と言っていたはずだ。
自身で勝手に終了宣言をして打ち切ったはずの議論に対して、本文よりも長い補足(という名の愚痴、恨み節)を後出ししたのも、言動が迷走している。
規範の対称性、言動の一貫性がまるでない。「これで最後」とか「後出しジャンケン」とか「比喩は良くない」とか「礼儀もリテラシーも欠如」とか、余計なことを言わなければいいのに、自分でそういうことを言っておいて、自分でそれを破っているのだから呆れる。
海原氏の論は万事がこの調子だ。
「王立誠の行為はルールの明確化という好ましい結果を招いた」という意見に対して、海原氏はなんと答えたか。
http://igo-omishiriokio.at.webry.info/200901/article_7.html
王プロの行為によって「合意」という悪習が無くなったのだからいい行為だったのだ、という理屈もナンセンスです。.. その部分は何の関係もありません。
「(王立誠の行為によって)結果的にどのような影響があったかは関係ない」と言った同じ口で「王立誠の行為が道義的に許されないのは、悪影響があるからだ」と言ってしまう。しかもこの後、得意気に「自分は後の影響まで考えた。王立誠擁護派はそこまで考えたのか。今頃になって言うとしたら後出しジャンケンだ」と続く。ご都合主義、支離滅裂もここまで来ると呆れを通り越して、何か心配になってくる。
そもそも「悪影響」というのは具体的に何のことか。他にも「道義」とか「筋」とか、言葉だけが踊っていて内容がない。
自己矛盾(自虐、ブーメラン)的な言明はまだまだある。
クレーマーの方が第2のレベルについて思いが至らないというのは、実に納得できる現象なんです。つまり、「自分の個人的な好悪を、普遍的なものとしてゴリ押ししょうとするメンタリティー」が根幹にあるという点で、分かりやすく共通しています。
海原氏が自らを分析したものならば、この一節は実に的確だ。
棋聖戦のダメ詰め騒動において、普遍的に採用すべき要素はルールであり、立会人の裁定である。碁界の(公的な)見解は、石田裁定から今に至るまで
- ルールに不備があった。
- 好ましくない慣習があった。
- 加えて柳時薫にミスがあった。
というものである。個人的好悪にすぎない「王立誠の行為が不愉快」という心情をひきずって、クレームをつけているのは海原氏なのだが、自身こそがクレーマーであるという自覚はあるのだろうか。
個人的な好悪をそのまま公共圏に持ち込もうとするのは、お子様のメンタリティーです。まあ言っちゃなんですがネットユーザーにはこういう方がすごく多いので、クレーマーの方なんてのはそういうアレな方と思っておけばいいのかもしれませんが、恐ろしいことに現実世界で会う囲碁ファンにも、こういうメンタリティーの人がものすごく多いんですよね。
皆さんも経験ないでしょうか?わけのわからん「マナー」を押し付けてくる人。そう言う人に限って、人の対局に横から口出したりするんです。やれやれ。
私も結構色々な趣味をやってきましたが、はっきり言いまして囲碁ファンほどこういうメンタリティーを持っている人たちはいませんでした。なぜそうなのかについてはそれ自体興味深い話なんですが、いずれにせよ、それは囲碁界にいい影響を与えません。
海原氏には鏡が必要だ。
「類は友を呼ぶ」と言うけど、海原氏の周りにはそういう囲碁ファンやネットユーザーが集まるのだろう。
「(王立誠が)アタリの石を取り上げるのはダメ」というのは、まさにわけわからんマナー
の典型である。海原氏はそれを「みんなが不快に感じている」と普遍化しようとする。せいぜい2、3人の「みんな」を「正当性の担保」として使おうとすることがまさに「お子様メンタリティ」である。「(王立誠の行為も立会人の裁定も)個人的に嫌いだ」で止めておけばいいのに、なんで「普遍的に間違っている」というところまで言ってしまったのか。
正直に言っちゃいますと、いい年してお子様メンタリティーを捨てきれない方は、駆逐すべきかとも思ってます。
王立誠を「俺様マナー」で非難したからと言って、駆逐されなければいけないほどとは思わない。自分の気に入らない人間を排除して「理想的な囲碁界」を創ろうとするのは、お子様メンタリティより害悪のある「金正日メンタリティ」である。国家にしても、宗教にしても、囲碁界にしても、「全体を一様な理想に導こうとする思想」にはろくなものがない。
関連
「棋聖戦駄目詰め事件について」
http://star.ap.teacup.com/abudoira/318.html
勝負事に向かない日本の気質 - 碁法の谷の庵にて
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200607010000/
『みんなが不快だ』は俺が不快だ!
http://ekken.blog1.fc2.com/blog-entry-40.html
お元気そうで。
当時囲碁のことすら知らず、今もほとんど知らない私ですが、
システム屋目線で言うと、やはり、
勝敗という明確なものを決定するゲームのシステムが
曖昧なものだったことが全ての原因と思います。