#1452 光速の新幹線を求めるようなこと
碁法の谷の庵にて - 碁の真理は勝敗でなく盤面にある に対するレス。
ただ単に相手に勝てばいいなら、ハメ手が問題視される理由などどこにもない。
ハメ手はハマリ手と紙一重の「諸刃の剣」である。まともな勝負師なら「強い相手にハメ手を仕掛けることが何を意味するのか」よく分かっている。相手の力量を見誤ってハメ手を仕掛けるという自爆行為は 勝負師として 問題視されるべきだろう。
コミ選択自己責任論は、碁に 真理追求としての碁を放棄させかねない。
コミ目数をみんなで決めても1手目以降は結局「自己責任」なのだが、そっちは真理追求を放棄したことにはならないのだろうか。真理追求が何より大事で、衆人の知恵が個人を上回るというなら、最初から最後まで全ての着手を共同研究にしたらいい。
せめてタテマエでもそこを維持してこそ棋士の矜持は保たれると思っている
「勝負に負けても芸は上」という奇妙なレトリックによって保たれるプロ棋士の矜持とは一体何なのか。口だけだったら何だって言える。「囲碁の真理」というようなことは勝ってから言えばいいのであって、負けた人間が言うことではない。
ヘボ碁打ちの世界ではごく稀に勝負と真理が乖離することはあるかもしれないが、プロの世界では「正しさ」と「強さ」は一致する。つまり本音と建前を使い分ける必要は全くないのだ。
私はプロは盤上における絶対的な真理を求められる存在 と思っている。
アマを自転車、プロを新幹線、に喩えるなら、真理は「光速の乗り物」である。
プロは盤上における絶対的な真理を求められる
というのは新幹線に「光速」を求めるようなものだ。真理はそんなに近い存在ではない。「より速く」を目標に新幹線を開発することはあっても「光速を求めて」新幹線を研究したら笑われると思う。
http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200610290000/
人間ごときに、何が真理か、などと言うことを解き明かすことはできない。
人間ごときに解き明かすことのできない真理を、プロ棋士には求めるのだろうか。
関連
http://plaza.rakuten.co.jp/pengo/diary/200610110000/
囲碁の藤沢秀行と将棋の故芹沢博文がお互いに囲碁・将棋の全てを100としてそのうちのどれだけが分かっているのかを手のひらに書いてそれを見せ合ったそうです。
藤沢秀行は6、芹沢は5と書いていました。
光速の新幹線を求めたら笑われるのは、追求すれど解なしあるいは仮に解があってもおよそ認識しえない領域であると認識されるからでしょう。仮に実現しても実用性がないから笑われる、と言うのならそもそも碁というゲーム自体に実用性がありません。
碁は解を出すことが出来ます。ただそれが途方もなく厳しいだけで。
私も賛成ですね。個人の勝負の形で真理追究を現すとはいえ、研究がそれを上回りついにはというのもけっこうなことでしょう。ある意味では碁と言うゲームの終焉ですが、私は碁と言うゲームを終わらせたと言う負の評価ではなく碁というゲームを極めつくした人間を正に評価するタイプです。
勝負に負けたと言うのは真理から遠ざかってしまった結果。そんなレトリックは私の見解からしても大嘘ですよ。もっとも、負けたのは碁のルールが悪いからと言うのなら、一応の筋は通りますが。(現段階の人間の能力では開き直りでしょうけども)
碁と言うそれ自体一文にもならない勝負事を棋道呼ばわりするにはそれくらいのことが要求されるとみますが、この点については私とそちらの見解の一つの重大な分岐点かと思います。