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hidew 2006.10.30

#1447 碁における「真理」と「勝敗」

http://plaza.rakuten.co.jp/igolawfuwari/diary/200610290000/

では、 コミ自由選択制にすれば碁は公正かつ真理なのか 。
確かに、コミ選択の自己責任を負わせることが出来るという意味では 公正ではあるかもしれない。 だが、真理などとは言われない。 人によってぐらぐらと揺らぐものをどうして真理などと言えるのか、私には皆目分からない。

人によってぐらぐらと揺らぐものを固定することがそもそも間違っている。つまり「愚かで不完全な人間同士の対局においてはコミを固定すべきではない」というのが真理だ。「コミの真正値」など知ったことではないが、追求したい人はすればいいと思う。

【引用者による要約】
適正なコミを7目と仮定、張栩が高尾紳路相手に「コミ10目半」と言って黒を4回引き寄せて4連敗したとしよう。これで勝った高尾紳路は「碁」と言うゲームにおいて最強者たりうるか。

この場合、高尾紳路が最強者なのは当たり前。

強い者が勝つのではなく、勝った者が強い。

png 1840 byte 碁は全知全能の神様同士が(コミ自由設定選択制で)打てば必ず引き分けになる。神様にとって碁は「勝負」ではなく「お絵描き」の一種なのだ。人間にとっての「三目並べ」から類推してみれば分かり易い。

しかし、人間同士が打つ場合、碁というゲームは真理とは全く別に存在している。我慢比べに耐える精神力、相手を揺さぶってミスを引き出す技術がかなりの比重を占める。(例えば、李昌鎬は前者の能力が高く、李セドルは後者の能力が際だって高い)

真理が大事だというなら(コミ6目半では)1手目(黒番)か2手目(白番)に投了することが最善の進行になってしまう。(コミ6目半という時点で既にどちらかが勝っている)

極論すれば、握りの段階で優劣がついてしまうことになる。

その通り。

たかが人間の考えた物事の体系ごときに真理などという評価をすることは出来ないと思っている。
人間ごときに、何が真理か、などと言うことを解き明かすことはできない。

という書き出しで始まっているのに、途中から「真理」という言葉(評価)を濫用している。とくに「張栩VS高尾紳路」の件では、「勝敗」という絶対の評価基準を差し置いて「どちらが真理に近づいたか」という解き明かすことのできない基準を使っている。

碁は「勝敗」と「真理」が見事に一致する美しいゲームである。何が真理か、ということが分からない以上、「勝敗」だけを見ればいいのである。

碁の解明が進めば「コミの設定/選択」こそが究極の一手(引き分けに持ち込む唯一のチャンス)になるだろう。一番重要な一手をミスったら負けるのは当たり前である。

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