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hidew 2006.10.21

#1439 「余分な飾り」と囲碁普及

パフォーマンス - 席亭の囲碁日記

ちゃげあすが「余分なものはないよね」って川合の堅実な守備をたたえたように、その場で必要なことを確実にできるのが本物であり、プレイヤーとして目指すべきであり、それを見る側は評価すべきだというのが個人的な意見です。

これに関連して、ちょうどこんなコラムを見つけた。

中日夕刊 2006.10.17 『かみつぶて』

(中利夫さん、高木守道さんは)備わった運動神経とともに人柄が見えるようで、プレーに余分な飾りがなかった。それが逆にスター性に欠けるということになったのだろうが、..

落合監督は選手時代から人を食ったような言動で異端ではあったけれど、ラインとしては中さん、守道さんたちに近い人ではなかったかと思う。地道な人というか、いい意味での生活者、私にはそう思えていた。

基本的に囲碁を打つ人というのは「余分な飾り」を嫌う人が多い。プロ棋士の中に成金趣味の人は皆無である。

  • あっち側 - 囲碁好き。虚飾を嫌う。
  • こっち側 - 普通の人。見栄、虚栄

囲碁における「美」は「余分な飾りがない状態」のことを指すが、虚飾を排した美しさというのは、「こっち側」の人にはひどく味気ないものに見えてしまう。「あっち側」で高く評価される美しさは「こっち側」に訴求する力が全くないのだ。

#これは キャズム(ハイテクの断層)に類似の問題である。

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20061018/1161176322

学習や啓蒙に第一に必要とされるのは、たんなる知識の解説ではない。
その事柄についてより注意深く考えてみたいと思わせるための、感情の刺激であり、動機付けなのだ。..
感情の刺激は、分かりやすさや正しさに優先するのだ。

囲碁普及における最大の間違いは「囲碁の魅力」をストレートに言い過ぎることである。囲碁の魅力がストレートに伝わるのは一部の人(数学、IT などの関係)に限られる。より広く普及しようと思ったら、「余分な飾り」を増やして感情を刺激する工夫が必要であろう。

囲碁普及において、エロ、ギャンブル、ヒール、などの「余分な飾り(演出)」の果たす役割が大きいことは当ブログで再三書いてきた通りである。

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