#1255 文末表現は重要か
http://d.hatena.ne.jp/smeg/20060516#1147765769
誰もが正しいとみなしている基本的な法則だって、「である」ではなく、いまのところ矛盾する現象は見つかっていない、というのが正確なところです。
この部分については全くその通り、最も有力な仮説を「科学」と言ったり、「定石」と言ったりするだけの話である。
関連
問題はこの認識に対する態度が、人によって全く正反対になることである。
- 全ては疑わしいのだから慎重に発言すべき。
- 疑わしいことは明らかだから断言してもOK。
日本語の文章を常体(・・だ。・・である。)で書くと「自信満々に断定した」というニュアンスになりやすいために、
- ・・と思う。
- ・・かもしれない。
- ・・らしい。
- ・・そうだ。
という文末になりやすい。なんでもかんでも文末をぼかして気を遣うことを島谷さんはかつて 文末のセレモニー' と称した。これが多いと冗長で不明瞭な文章になるので、私はできるだけ控える方がいいと考えている。
ガセネタ含有率の高いスポーツ新聞や週刊誌でも、語尾はほとんど言い切っている。「何かを断定すること」と「その内容の真実性」は実は全く無関係なのだ。表現方法は発言者の性格、見識、立場、動機により様々なので、結局、受け手が読み解く力(リテラシー)を持つしかないと思う。
碁に関する話の場合、一例として下記のような信頼性係数を掛け合わせて判断したい。
- 1.0 神様
- 0.6 李昌鎬
- 0.5 王メイエン
- 0.2 関西棋院
- 0.01 アマ有段者
- 0.0001 匿名者
全く同じ内容のことを同じ表現で言ったとしても、発言者が、李昌鎬なら無条件で信じてもいいし、私のようなヘボ碁打ちなら眉に唾をつけて聞かなければならない。
【関連 2006.06.08】
ブログに書かれている事は、その大部分が「個人の主観」に則って書かれたものなんだから、たとえ断定の文体であろうとも「……と、筆者は思った」と脳内変換すれば、腹の立つ事も少なかろう、と思った。
文末表現が大きな問題となるのは、宗教の世界です。キリスト教・イスラム教・ユダヤ教など一神教では、預言者が「・・と神の声を聞いた」と自らの正統性を神格化します。ところが仏教では「如是我聞」といい、私は神の声を・・・と受け止めました。と表現します。このため仏教では異端弾圧が少なく、パレスチナのような醜い事が起こらない。仏教国の中でも、日本の仏教の寛容性は、ローマ帝国全盛期に匹敵します。これは世界に自慢して良いと思うのです。